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    平将門と八幡神社 佐藤清文

    • 2012.01.06 Friday
    • 07:07
     

    八幡神社から見る歴史

    Seibun Satow

    Jan, 05. 2012

     

    「歴史こそは最良のコーディネーターであって、少しは目ざわりなものを、すぐにすりへらして、伝統にとけこませていくものだ」。

    森毅『「新しいもの」は、なぜすぐに古びてしまうのか』

     

     初詣を近所の神社で行う人も多いことだろう。日本で最も多い神社は八幡宮である。ちなみに、二位は稲荷神社となっている。八幡宮が日本で最もなじみのある神社になった理由には、歴史的な経緯がある。

     

     八幡神は、元々、豊前国宇佐(現大分県宇佐市)の土着の伸である。宇佐に隣接する国東半島は大和朝廷と隼人族を始めとする諸勢力の境界である。大和の軍勢は機内から瀬戸内海を渡り、周防灘を経て宇佐に上陸する。戦いに臨む際、宇佐でこの武の神に加護を求める。大和が勝つにつれ、八幡神の地位も向上し、朝廷とのつながりも強まる。

     

     奈良時代の740年、藤原広嗣が大宰府で挙兵する。この乱の平定にも八幡神が活躍したとされている。広嗣は唐津で処刑され、その怨霊を鎮めるため、同地に鏡神社が建立されている。

     

     743年、聖武天皇が大仏造立の詔を発する。このプロジェクトが難航すると、八幡神が協力を申し出る。神が仏事の後押しをしたというわけだ。東大寺が完成した際、八幡神は寺の守護神として祀られ、寺内に手向山八幡宮が建立される。

     

     769年、孝謙上皇の病を癒して信任を得て台頭した道鏡が宇佐八幡の神託と称して皇位に就こうと企む。ところが、八幡神が皇家以外のものを天皇にしてはならぬと託宣を下し手その野望を阻止する。翌年、この法相宗の僧は下野薬師寺に左遷される。

     

     794年、平安京に遷都される。平安時代、朝廷と八幡神の関係はますます強化されている。859年、都を鎮護する目的で、鬼門と呼ばれる南西の方角に岩清水八幡宮が建立されている。この頃、八幡神は、武神だったこともあり、『日本書紀』に記載されている仲哀天皇の后で、応神天皇の母神功皇后が行ったとされる新羅出兵、すなわち三韓征伐伝説と結びつく。そのため、八幡神に応神天皇や神宮皇后の人格が付与され、岩清水八幡宮は伊勢神宮に次ぐ地位にまで上りつめる。

     

     935年、平将門が東国で蜂起し、常陸・下野・上野の国府を攻略、自身を天皇の子孫であるとして「新皇」に即位、猿島を内裏とする。将門は、その際、「八幡大菩薩」が皇位を授けたと主張している。将門は武人であるから、八幡神を崇拝したことは容易に理解できる。それは、後に、鶴岡八幡宮が鎌倉武士の守護として崇められていたことからもわかる。しかし、菩薩は悟りに達した仏である如来になるための修行者である。「八幡大菩薩」は日本の土着伸と大陸伝来の仏教の融合にほかならない。

     

     土着伸の仏教への接近は、すでに言及したことからも明らかなように、奈良時代から見られる。近代以前の日本の思想史は大半が仏教で占められている。もともと体系性に乏しい神道も仏教に組みこまれ、再構築されてきたのが実態である。朝廷で執り行われる行事の多くが仏事である。『神皇正統記』の冒頭に、「大日本は神国なり」と記されている。これは仏という絶対者が神として現われる国という意味である。これを「本地垂迹の説」と呼ぶ。平安時代に形成され、中世に広く社会に浸透している。この考えに則り、寺院と神社が合一される。八幡神は阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩の化身と信じられている。他にも、天照大神が大日如来、素戔嗚尊は牛頭天王、大国王尊は大黒天と結びつく。

     

     将門は、即位後2か月で、藤原秀郷や平貞盛らにより討伐され、首をはねられる。その後、将門は御首神社・築土神社・神田明神・国王神社などに祀られている。内田樹は、原発事故発生の際に、将門の首塚などを例に、荒ぶる神を鎮める昔からの知恵として「原発供養」を提案している。確かに、怨霊を畏れて、それを鎮めるために施設を建立することは古来より行われている。しかし、そこには時の権力者に対抗した(と思われた)共通点がある。それは政治的正しさの相対性に一因があるだろう。福島第一原発が時の権力者に取って代わろうとしたわけでもないのに、「供養」の対象になるのかまったく理解できない。内田樹の意見にはこうした恣意性が少なからず見られる。ノンフィクション作家の佐野眞一は『津波と原発』の中で「同じエネルギー産業に従事しながら、炭鉱労働者には『炭坑節』が生まれたのに、原発労働者には『原発音頭』が生まれなかった」と言っている。「原発供養」よりこの方がはるかに本質を突いている。

     

     八幡神は朝廷にとって頼もしいが、民衆には怖い存在でもある。八幡神は武神であるため、人々に畏怖を要求する。1013年、丹波国水上郡のある村が旱魃と疫病に見舞われる。祈祷をすると、次のような八幡大菩薩の託宣が下される。

     

     われはこれ八幡にして、別宮に垂迹す。しかるに住人、その務めを成さず、これによりてわれ、この禍難を致すところなり。

     

     住人が神殿と八幡大菩薩の神像をつくって祀ると、村は平穏に戻る。その後、この地域は岩清水八幡宮領へと編入される。

     

     八幡大菩薩は畏れの神である。人々が畏怖を怠ると、怒り、罰を下す。八幡神に縁のある地域は、おそれとおののきのために、八幡神社を次々に建立する。八幡宮領は日本各地に拡大していく。八幡宮が日本で最も多い神社である理由はここにある。

     

     明治に入り、政府は、1868年、神仏分離令を公布する。70年に、王政復古・祭政一致から神道を国教化する大教宣布の詔を天皇の名において公にする。こうしたおよそ近代国家が何たる課を理解していない政府の方針もあいまって、各地で廃仏毀釈が起きている。さらに、政府は全国の神社を神祓行政下に置き、官社・諸社の社格を定め、祭式の統一を図っている。政府は神社への崇敬を臣民の義務とし、家庭や公共機関などに神札を祀ることを奨励する。特に、軍国主義の時期、武神である八幡神は軍部に利用される。あるコーホートの人々にとって、八幡神社は忌まわしい場所でもある。

     

     1959年、盛岡八幡宮の境内に、米内光政銅像が設置される。彼は戦前を代表する軍人政治家の一人である。しかし、この設立は決して復古主義的動機に基づいていない。同神社のホームページには次のように記されている。

     

      米内光政(よないみつまさ)は明治133月、盛岡市生まれ。海軍大臣、内閣総理大臣の職についた人で、太平洋戦争の終結に貢献しました。ここに銅像ができたのは、幼少時代をこの地で過ごした経緯があるからです。昭和34年、米内光政銅像建築会によって設立されました。米内光政の文字は米内自身の筆跡です。

     

     これが戦後における八幡神社の一つの姿である。

     

     自分がかつて生きていた時代を残そうとするのは、歴史のうちに入らぬ。生まれる前からの歴史の流れの菜かで、どんどん新しいものが入り、それがどんどん古くなり、それでもとけあっていくのが伝統というものだ。(略)

     古いものを保存したほうがいいのは、それがなくて新しいものfだけだと、新しいものがすぐに古びてしまうからである。

    (森毅『「新しいもの」は、なぜすぐに古びてしまうのか』)

    〈了〉

    参照文献

    五味文彦他、『日本の中世』、放送大学教育振興会、2007

    佐野眞一、『津波と原発』、講談社、2011

    森毅、『考えすぎないほうがうまくいく』、知的生きかた文庫、1998

    盛岡八幡宮

    http://www.morioka8man.jp/

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