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    自尊感情と遊び

    • 2012.07.19 Thursday
    • 22:25
     自尊感情と遊び
    Seibun Satow
    Jul, 19. 2012

    「逃げるが勝ち」。

     神谷栄司京都橘大学教授編纂の『子どもは遊べなくなったのか』(2011)によると、最近、ルールの下で勝ち負けを競う遊びをできない子どもたちが目につくようになっています。「遊びの根幹であるルールをめぐって、異変は起きている。遊びグループの中で比較的に力の強い子どもが、自分の負けがはっきりする直前に、負けないようにルールを勝手に変更してしまう。その結果遊びは崩壊していく。他方、種々の発達障害の疑いのある幼児たちも独特な形で『遊びにくさ』のなかにある」。

     ところが、そんな子どもであっても、ごっこ遊びは楽しめるのです。ままごとのようなイメージの遊びは3歳児ぐらいから見られます。想像力を働かせて、対象を見立てたり、場面を設定したり、役割を演じたりすることで、行動ルールや表現力が身に付きます。こうしたごっこ遊びは時代が変わっても、人気は依然として維持されているのです。

     しかし、そうなると、このアンバランスさが不可思議です。勝負事の遊びもごっこ遊びも人間の文化にはどちらも必要ですし、優劣もありません。遊んでいる子どもの光景に一方では破綻した有様、他方で昔と変わらぬ姿も見られるのです。なぜと問わずにはいられません。

     最近の子どもの傾向や特徴に関する報道や指摘には注意が必要です。特定イデオロギーに基づく教育改革を行いために、問題化されることが少なからずあるからです。権威主義者が教育改革の理由として社会混乱を挙げるのは常套手段です。

     遊びに関する古典的分類としてシャロッテ・ビューラー(Charlotte Buhler)による次の四種類がよく知られています。

    機能遊び(Functional Play)
    がらがらなどの感覚遊びとブランコなどの運動遊び
    想像遊び(Imaginative Play)
    ごっこ遊び
    受容遊び(Receptive Play)
    読み聞かせや人形劇などの鑑賞遊び
    創造遊び(Creative Play)
    積み木や織り紙などの構成遊び

     この分類には勝負事の遊びが入っていません。発達の際、人間は真似ることを競うことより先に始めます。模倣は社会的学習の基礎です。真似るには自分と他者の違いが意識されていなければなりません。競争するには、そこからさらに基準に照らし合わせて自分と他者を比べる認識が必要です。遊びも真似るものが先で、当然、競うものは後です。乳幼児の遊びを対象にした場合、競争は優先されません。

     共通のルールに従って勝敗を競うゲームも基準が主観的なのか客観なのかという点から分類できます。前者の代表がにらめっこ、後者はじゃんけんです。

     「にらむ」が相手を威圧する行為であるにもかかわらず、笑ってしまうという遊びには、精神的発達が不可欠です。表情の記号としての意味が理解できていないと成り立ちません。ただ、何をもって笑ったと判断するかは客観的ではなく、曖昧です。

     アメリカの黒人文化に「ダズンズ」という遊びがあります。二人向かって、悪口を言い合う言葉のボクシングです。怒り出したり、言葉につまったりしたら負けです。通常は観客が周りにいて、審判の役も兼ねています。これなどはにらめっこと同様の基準に基づく遊びです。

     一方、じゃんけんの勝ち負けの基準は客観的です。グーはチョキより強く、チョキはパーより強く、パーはグーより強いのです。これは誰にとっても不可侵です。

     こうした勝敗の基準が客観的な遊びは相手の裏をかくゲームです。勝負事では、実際には、心理戦の占める割合が高いものです。相手の手の内を読み、自分をどう考えているか推察する必要があります。こういった心理戦はじゃんけんだけでなく、広く遊戯やスポーツ全般に見られます。のみならず、娯楽を超えて、政治・経済・社会の広範囲で相手の裏をかくことが行われています。それを体系化したゲーム理論も発展しています。

     ヨハン・ホイジンガは、『ホモ・ルーデンス』において、人間の本質を遊ぶことに見出しています。彼の想定したのは一人遊びよりも、むしろ、こういった心理戦の伴う遊びです。遊びの持つ想像力の作用が人間をここまで進化させてきたというわけです。

     余談ですが、心理戦はコンピュータにとっても難問です。チェスや将棋、囲碁の電脳名人の開発が進んでいます。かつてコンピュータは心がないので心理戦に有利だとされてきましたが、実際には逆の結果が出ています。コンピュータは相手が押せば引くし、引けば押します。盤面が有利であるのに、相手がわざと引いたとします。すると、コンピュータはそれをミスと判断し、罠に引っかかってしまうのです。

     勝敗を競う遊びができない子どもたちは共通のルールに従って相手の裏をかくゲームを楽しめないということなのでしょう。

     ルールの実践と意識の発達はジャン・ピアジェが提示した段階論が知られています。このスイスの心理学者はルールの実践に関して次の四段階を見出しています。

    運動的個人的段階
    自分の思うままに遊ぶ
    自己中心的段階(2~5歳)
    規則の例を模倣して自分流に利用する
    協同が生まれる段階(7~8歳)
    友だちに勝とうとする
    規則の制定化の段階(11~12歳)
    規則を尊重する

     なた、意識については次の三段階を想定しています。

    個人的な規則しかない段階
    規則は強制力を持たないもの
    規則を絶対と捉えている段階(4~9歳)
    規則は大人から与えられるもの
    規則を変えられると考える段階(11歳以降)
    規則は相互の合意に基づくもの

     勝負事ができない子どもは、こう考えると、実践と意識の発達段階がずれていることがわかります。友だちに勝とうとする段階では、ルールを絶対視するはずですが、強制力を持っていないと意識しているのです。

     こうした現象の理由はさまざまに考えられます。大人社会の変化もその一つです。子どもの心理には、カウンセリングの報告が伝えているように、思っている以上に、大人の影響が大きいのです。グローバル化に伴う国際競争の激化により、成果主義やルール違反の傾向も目立つようになっています。ここから子どもの規範意識の低下の理由を探ることも可能です。

     いい大人であれば、ゲームで負けた場合、相手をほめるか、自分を責めるかが通常の反応でしょう。その時は確かに悔しくても、成長上の途中結果と考えるものです。相手の裏をうまくかけずに今回は負けたけど、次回はそれを生かして勝ってみせる。そんな思いで工夫して勝ち負けを繰り返しているうちに、技能が上達していくものです。初心者であれ、上級者であれ、手順や操作がルール上共通ですから、成長具合もよくわかるものです。とは言うものの、ゲームに強い人もいれば、弱い人もいます。しかも、それは人格全体を表わしているわけではないのです。勝ち負けよりも、その場を楽しむことに意義を見出します。こうした心のゆとりが大人の作法というものです。

     規範意識の低下も重要ですが、自尊感情の低下から考えることも必要です。林泰成上越教育大学大学院教授は、心理カウンセラーと道徳教育の専門家としての経験から、自尊感情の弱い子が増えたと指摘しています。「自尊感情(Self-esteem)」は「自尊心(Pride)」と違います。両者を分かつのはフリードリヒ・ニーチェの言う「ルサンチマン」の有無です。

     前者はルサンチマンなく、ありのままの自分を受け入れる心情です。他方、後者は他との比較によって自分の優越感、あるいは自意識の優位性を感じようとするルサンチマンです。自分自身を大切に思う気持ちが弱く、「どうせ自分なんかダメさ」と投げやりです。ところが、それと反対に、自尊心の方がやたら強いのです。自尊感情の不足を自尊心で補っているとも言えます。自尊心がパンパンに膨れ上がり、ちょっとした刺激で破裂しそうな小さな風船能のようになっています。自尊感情が育まれて、自己理解・他者理解・相互理解が促進されれば、ルール尊重の態度も育つものです。

     林教授の研究は小学生以上を対象にしています。神谷教授等のそれとはフィールドが違いますので、一概に直結することはできません。林教授は、最近の子どもたちの特徴として、他に「規範意識の低下」や「人間関係力の低下」を挙げ、それも「自尊感情の低下」から派生していると指摘します。小学生以上のこうした特徴が入学から突然生じるとは考えにくく、神谷教授等の研究と関連させることは十分意義あることです。

     負けを認めないとはあるがままの自分を受け入れられないということです。ルール破りの子でもごっこ遊びができる理由にも自尊感情の低さから説明できます。その想像された世界である役を演じているのであって、それは自分自身ではありません。あるがままとして現われた自分を受容しなくてすむのです。

     ごっこ遊びの意義を否定しているわけではありません。ごっこ遊びには、すでに述べた通り、重要な教育的作用があります。また、その延長線上にあるロール・プレイングは道徳教育や心理臨床の場で広く用いられています。ごっこ遊びやロール・プレイングは、社会性の発達や他の人の気持ちの理解などの教育的効果が認められているのです。他者の心の動きを体験して感性を耕すわけです。ロール・プレイングはコンテクストを認識したり、相手の気持ちを察したりしなければ、続けられません。勝負事よりも繊細な気配りが要ります。

     ただ、相手の裏をかく必要はありません。日本の「テレビ・ゲーム(Video Game)」は、他国と違い、ロール・プレイング・ゲームの人気が高いことで知られています。携帯端末も含めてモニター型のゲーム市場では真似る遊びのニーズが北米よりはるかに大きいのです。勝負事では合理的思考が不可欠で、理性が求められます。一方、RPGは、感性を磨き、社会的もしくは個人的な価値観を体験します。価値観の共有が成立条件で、それはコミュニティづくりを意味します。そこは自分の価値観が守られる「心の居場所」となり得ます。

     もちろん、これはあくまでも作用で、RPGの日本の愛好家は自尊感情が低いと言っているわけではありません。また、ウルティマを始めとして道徳性の向上を加味したRPGも多数あります。テレビ・ゲームに対する世間の風当たりは強いですから、公序良俗に反することには業界も敏感です。

     一方、勝負事はルールの共有に基づいています。そのルールを守りさえすれば、価値観は問われません。異なった価値観が共存するトラフィックを形成できるのです。勝負ゲームは勝者と敗者を生み出しますが、別々の価値観が共生することを探る際には示唆を与えてくれるのです。

     現代社会における最重要の理念として「公正と寛容」が挙げられます。今の世の中には、ルールが特定の価値観に利用され、参加者をそれに従わせることができるのだから、その制作者が優越していると考える風潮もあります。神になれると思うわけです。価値観の確保にルールを悪用する動きがあり、不公正が溢れているので、人々は「公正さ」を求めてコミュニティを形成します。けれども、それを過度に追及すると、その内外でコンフリクトが生じます。そこで必要になるのが「寛容さ」です。異なった価値観同士が寛容さを尊重して共存するのです。

     子どもたちの遊びをめぐる異変は、彼らだけでなく、大人も含めて自尊感情のありようがどうなっているのか考える契機と捉えるべきでしょう。自尊感情を自虐や負け犬根性と誤解していたり、自尊心と混同していたりする歪みが大人の間にはびこっていては、子どもたちの精神の発達を病的にしかねません。自尊感情を健康的に育むこととは何であり、どうしたらいいかについて真摯に向き合う姿勢が大人に必要なのです。
    〈了〉
    参照文献
    神谷栄司編、『「子どもは遊べなくなったのか」、三学出版、2011年
    林信二郎他、『幼児の教育と保育』、放送大学教育振興会、2004年
    林泰成、『道徳教育論』、放送大学教育振興会、2009年
    ヨハン・ホイジンガ、『ホモ・ルーデンス』、高橋英夫訳、中公文庫、1973年
    佐藤清文、『自尊感情と自尊心』、2012年
    http://www.geocities.jp/hpcriticism/oc/sep.html

    決断する政治

    • 2012.07.15 Sunday
    • 01:31
     決断する政治
    Seibun Satow
    Jul, 14. 2012

    「われわれは、総統の高い意志についていくだけでいい」。
    マルティン・ハイデガー『国家社会主義教育』

     ナチズムはまさに決断する政治である。フライブルク大学総長マルティン・ハイデガーは、1933年、決断する政治であるがゆえに、ナチスに支持を表明し、教職員や学生にもその決断を求めている。

     ドイツの教職員諸君、ドイツ民族共同体の同胞諸君。 ドイツ民族はいま、党首に一票を投じるように呼びかけられている。ただし党首は民族から何かをもらおうとしているのではない。そうではなくてむしろ、民族の全体がその本来の在りようをしたいと願うか、それともそうしたいと思わないのかという至高の決断をおのがじし下すことのできる直接の機会を、民族に与えてくれているのである。民族が明日選びとろうとしているのは他でもない、自分自身の未来なのである。
     (『アドルフ・ヒトラーと国家社会主義体制を支持する演説』)

     ワイマール共和国は急激なインフレと証券市場の崩壊、激化する政治闘争など困難な状況に陥る。32年7月の総選挙で、行動力と演説力を売り物にした42歳の元陸軍伍長を党首に冠する国家社会主義ドイツ労働者党が第一党に躍進、翌年の1月、アドルフ・ヒトラーを首班とする内閣が発足する。ナチスは憲法で保障された基本的人権を停止したのを皮切りに、数々の権威主義・人種差別政策を実施し、民主主義体制を崩壊させる。

     『存在と時間』により国際的な名声を得ていたマルティン・ハイデガーは、32年末、フライブルク大学総長選挙に立候補し、翌年の4月に選出される。断固として決断と行動によって可能性をつかむことを主著で展開した彼は、同年のメーデー、ナチスに公式入党している。新総長は大学の民主的なシステムを解体、哲学に基礎を置くカリキュラム改革を提唱する。さらに、公開講演では、ナチスへの忠誠を呼びかけ、強力なリーダーシップに率いられたドイツ国民のアイデンティティの回復を熱狂的に叫んでいる。

     ドイツ国民は自らの未来を選択する決断の時に来ている。アドルフ・ヒトラーは決断する指導者である。その選択は自由主義的な投票行動ではない。拍手喝采によって決断を表明することである。その時、「民族の全体」が「その本来の在りよう」を「自分自身の未来」として選びとる。ドイツ国民がそのような意志を示すなら、恒久さと偉大さが約束される。

     ハイデッガーは反ユダヤ計画には賛同していなかったと見られるが、それを除くと、ナチズムとの親和性が高い。ハイデガーは、同時代的な気分をつかみ、奥深いことを語っていると思わせ、スターとなれる個性的な文体を持った思想家である。彼のナチス賛美の文章はその本質をよく物語っている。ナチズムは、右からの全体主義であるファシズムの極限形態であり、それを知るためにも、今後ともハイデガーの著作は読まれねばならない。

     全体主義は第一次世界大戦という総力戦の経験なしにあり得ない。戦場は固着し、消耗戦・補給戦・生産戦・封鎖戦となり、全国民の総力が戦争の結果を左右する。ドイツは、中でも、官民協力が促進されている。陸軍省に設けられた戦時原料局の監督下、各産業ごとに原料の生産・調達を管理する国策会社が設立される。この戦時原料企業の母体は既存の利益団体・シンジケートであり、国家統制と民間の自主管理を組み入れるシステムである。公的統制に民間を組みこむ手法は工業部門にとどまらず、農業や商業にも及んでいる。第一次世界大戦前まで欧州では自由主義がスタンダードであり、政治と経済を分離していたが、政経混合システムの経験は戦後にも影響を与えることになる。

     機関銃や戦車、毒ガス、飛行機などが新たに戦場に投入され、兵士たちは塹壕の中で過酷な体験を強いられる。こうした経験を共有する復員兵の間には英雄崇拝と連帯感が生まれている。動員解除されても、彼らの中には市民生活になじめないものも少なくない。アドルフ・ヒトラーもその一人である。

     死線から戻ってみれば、議会は政局に明け暮れて、企業は拝金主義にまみれ、人々は消費にうつつを抜かしている。みんな自分勝手なことばかりしている。軍は上意下達の秩序立った組織である。彼らは部隊全体で腕時計の時間を合わせ、上官の決断した命令に従い、祖国のために、戦友と共に突撃する。そんな自分たちこそが真に国家の未来を考えている。堕落した社会の根性を叩き直さねばならない。ファシズムはこういった復員兵の反自由主義・反個人主義・反合理主義のイデオロギーである。

     第一次世界大戦後、大衆の政治参加が一層進む。元軍人の右翼勢力は社会不安や政治的停滞、経済的混乱を欧州のスタンダードの議会制民主主義や自由主義のせいにし、それを打倒し新たな体制の構築を希求する。中でも、敗戦国の場合、敗北の責任を国内における裏切り者に見出す動きが見られる。不純物を極度に嫌う潔癖性がここから生じる。彼らはあらゆるメディアを駆使した新たな動員を図り、非合理性や美意識に訴え、感情の共同体の形成をもくろむ。理性を超えた崇高なるもの、偉大なるもの、神聖なるものへの歓喜と熱狂を通じて民族の統合を目指す。19世紀から国民国家は国民主義としてのナショナリズムに立脚しているが、ファシズムは民族主義や人種主義に依拠する。民族や人種は主観的であり、それを共有するものに適用される。その民族の大義を具現する指導者に率いられたファシズムは、その主観性を共通理解する彼らにとって、真の民主主義である。

     ナチズムはこうしたファシズムの急進主義であり、議会制民主主義と自由主義を完全に否定する。共産主義も両者を批判したが、ナチズムとは異なっている。ファシズムが右からの全体主義であるなら、スターリニズムは左からの全体主義である。

     古典的な自由主義は政治と経済を分離する。それに対し、共産主義は政治と経済を一体化させ、資本主義と別の体制を構築しようとする。市場経済が利己的動機を重要な原動力としているのに対し、共産主義は階級闘争にそれを求める。労働者階級が資本家階級から権力を奪取し、その前衛党の指導の下、官僚機構が経済を計画・統制する。

     一方、ナチズムにおいて歴史の原動力は政治的決断と頑張りである。決断して頑張ることが経済問題を解決するという反合理主義は他の政治思想には見られない。資本主義も共産主義も乗り越えなければならない。欲望にも階級闘争に動因を見出さないので、すべての階層に根拠のない経済的成果を約束し、それらを民族の名の下に統合する。弱者は頑張れない劣等として排除される。滅私奉公が説かれて自由は極限まで抑制、利害対立・調整の場である代議政治も否定、政治動員が体制に組みこまれる。

     ナチズムでは、経済は政治に従属しなければならない。歴史的使命に身を捧げ、国家のために額に汗して働くことこそ尊い。目指すは生産至上主義の自給自足経済である。英雄的な経営者・企業家の賛美もここから派生する。ナチスがケインズ主義を実践したという意見は正しくない。ケインズ主義の需要が供給を生み出すという前提とは逆に、ナチスは生産偏重の禁欲主義を信じていたからである。しかも、戦争準備や戦時動員に熱中する彼らの経済運営や政策の優先順位は著しく合理性を欠いている。

     われわれを脅かすのは政治的敵対者である彼ら、すなわち誹アーリア人である。われらの政治的・経済的・社会的な伝統・制度・文化などは血と地を通じて共有されている。その基準に照らしてそぐわないものは非アーリア人である。崇高で、偉大、神聖なものがその穢れた連中の危機にさらされている。この人種主義は国民主義とは違う。極めて主観的であるからこそ、内部に基準を設けられ、外部との相違が認知できる。ナチスはこうした人種主義に駆られて非アーリア人の絶滅計画を実行、さらに対外戦争を仕掛け、19世紀以来の国民国家体制に基づく欧州の秩序を破壊しようと企てる。

     市民生活になじめなかった復員兵のイデオロギーであるファシズムはナチズムとして、最終的に、社会を戦争状態に変えることに帰結する。しかも、カタストロフを招いても、この思想には反省や後悔の契機も持たない。滅亡の美学だと言ってもよい。決断する政治においてそれを尊厳ある運命として受け入れることも正当化するからである。

     経済が混乱、政治が混迷し、社会不安が増大すると、決められることをメディアを始め世論も求めたくなる。けれども、そんな時には、「決断する政治」の経験を思い出した方がよい。それは誰かが決めたことに追随する態度を選んだ滅亡の美学にすぎない。

     この未曾有の意思をもった人、われらが総統アドルフ・ヒトラーの勝利に──「ジークハイル」三唱!
    (ハイデガー『国家社会主義教育』)
    〈了〉
    参照文献
    平島健司他、『改訂版ヨーロッパ政治史』、放送大学教育振興会、2010年
    マルティン・ハイデガー、「アドルフ・ヒトラーと国家社会主義体制を支持する演説」、石光泰夫訳、『現代思想』1989年7月号

    児童文学のために

    • 2012.06.16 Saturday
    • 05:13
     

    児童文学のために

    Seibun Satow

    Jun, 15. 2012

     

    「子どもを過大評価する危険よりも、過小評価する危険のほうがはるかに大きい」。

    ジャンニ・ロダーリ『ファンタジーの文法』

     

     ある対象がそれに属さない人たちの願望の反映として歴史的に形成されたことを明らかにします。最初にこうした方法論を提示したのがフリードリヒ・ニーチェの系譜学です。彼は道徳で展開しましたが、20世紀後半、それが広範囲に見られるようになります。シモーヌ・ド・ボーヴォワールの『第二の性』(1949)やエドワード・サイードの『オリエンタリズム』(1978)がその代表でしょう。前者はフェミニズム、後者はポスト植民地主義に決定的に影響を与えています。

     

     この方法は汎用性が高いものです。そのため、インフレになり、ボーヴォワールやサイードの持っていたインパクトはありません。流通している言説批判が主眼ですので、その対象の真の姿はその検討から導き出されることはないのです。不可能性が結論として提示されるのがお決まりです。功績は、むしろ、いかなる対象にもこうした認識を前提にすべきだという点でしょう。この発想を内包した上で、発展性をもたらす論考が求められるのです。

     

     ところが、残念ながら、それに気づかず、生産性を欠く考察もあります。既存の言説を相対化して、建設的な議論の発展を促進するのではなく、それを阻む嫌味なアイロニーでしかありません。結局、社会と文化の相互関係の堂々巡りを物語るのです。ジャクリーン・ローズ(Jacqueline Rose)の『ピーター・パンの場合─児童文学などありえない?(The Case of Peter Pan, or the Impossibility of Children's Fiction)(1984)がその典型でしょう。

     

     この論考はフィリップ・アリエスの『〈子供〉の誕生』(1960)の延長線上にあります。ジャクリーン・ローズは同書で「児童文学の不可能性」を指摘します。「子ども」は大人の願望の反映によって歴史的に形成されたイメージにすぎません。作品に登場する子どもは純真無垢などそれに沿っています。けれども、その背後には、精神分析を用いるなら、「性としての子ども」や「商品としての子ども」が潜んでいます。それらと実際の読者の子どもとの間にはギャップがあるため、児童文学は不可能だというわけです。

     

     児童文学が近代社会の産物であることは確かです。近代以前、子どもどころか、大人の識字率も高くありません。読み書きができるのは一部の聖職者や貴族、知識人などです。児童文学という産業が誕生したのは19世紀半ばの欧州です。20世紀初頭までが形成期と見なすことができます。産業革命の進展に伴い、中産階級が出現します。すでにロマン主義者が子どもを汚れなき存在として崇拝していましたが、ヴィクトリア朝の抑圧的な通俗道徳と社会進化論が子どもに具現化され、中産階級に認知されるのです。子どもは純真無垢であり、救いをもたらすと同ときに、進歩するこれからの社会を担います。当ときの子どもに関する認識をよく示しているのがチャールズ・ディケンズの小説でしょう。この国民作家は子どもを大人を救済する存在として登場させ、読者はその健気さに涙せずにはいられません。『オリバー・ツイスト』(1838)が好例です。

     

     こうした変化により、児童労働の制限や義務教育の開始などの社会改革が進みます。と共に、子どもをめぐる産業も急成長していきます。子ども向けの玩具や衣服が現われ、ジョン・テニエルなどの挿絵が入った児童文学書が次々に出版されます。子ども部屋が出現したのもこのとき期です。この新たなジャンルは教訓物語ではなく、ルイス・キャロルを始め、狭量な社会のもたらす認識を広げさせる想像力の冒険です。また、ハンス・クリスチャン・アンデルセンのように、民話や童話にアイデアを求めた作品も流通しています。こうして児童文学は欧州に定着し、近代化の世界的拡大に伴い、その外部でも見られるようになっていきます。

     

     こうして登場した児童文学は、今日、一つのジャンルとして確立しています。児童文学を定義すると、それは思春期以前の子どもを主要読者層に想定した文学ジャンルです。セグメント化されていますが、主な区分は発達段階、すなわち年齢です。散文でも詩でも作品内の文は短く、その構造も単純、語彙も少ない特徴があります。日本語の書籍では、概して、敬体が用いられます。登場人物は、読者と同じ年齢の場合は等身大が多く、そうでないときは、何らかの象徴として描かれます。舞台は、主人公が等身大の作品では日常世界のこともありますが、たいていは非日常的・空想的です。

     

     構成は定型的です。散文では昔話や物語の構造や規則を踏襲し、詩も伝統的な定型ないしそのヴァリエーションが中心です。ある世界から出発して、別のそれを渡り歩き、最後は元に戻るという円環構造がよく見られます。散文の描写は詳細さに欠け、隙間が多い傾向があります。

     

     執筆者はたいてい大人です。児童文学は、その意味で、子どもによる、子どものための、子どもの文学ではありません。作品上の子どもの扱い方や描き方も、作家の個性だけでなく、とき代や社会の影響を受けています。

     

     子ども向けの書籍は非常に幅広いのです。読み書きができない幼児を対象にしたカラフルな絵本から白黒のペン画が数枚挿入されただけの小学生高学年向けの物語までが含まれます。内容もナンセンスな言葉遊びから道徳的なジレンマまでと多岐に亘ります。大人向けとの内容の違いは、教育的配慮を除けば、さほど認められません。また、読まれ方も、大人が読み聞かせる場合もあれば、一人で黙読する場合もあります。学校や地域の図書館も児童文学に接する機会を提供しています。そこでは全国学校図書館協議会図書選定基準などに即した蔵書が多いですが、教科書ではありませんから、読まなければならない本ではありません。児童文学は子どもとの間にアフォーダンスの関係があります。児童文学は子どもに読み聞かせる行為もしくは読む行為をアフォードするわけです。

     

     このように、児童文学は何らかの形で大人が介在しています。子どもを受動的に見ているから、児童文学の不可能性という結論に至るのです。文学を楽しむ際に、読み書き能力が必要になります。識字能力の学習には総合的・段階的なカリキュラムが不可欠です。それを習得したのが大人、その途上にあるのが子どもになります。読み書きの力が大人と子どもをわけるわけです。能動的な大人がとりしきり児童文学を受動的な子どもに提供するのだから、それは不可能ということなのです。

     

     けれども、子どもを受動的と決めつけるべきではないでしょう。黒澤明監督は、『スター・ウォーズ』について、音楽が多すぎるとジョージ・ルーカス監督に意見を述べています。このクロサワ・チャイルドが「子どもが見るのでわかりやすくしました」と答えると、「子どもを侮辱しちゃいけない。子どもはそんなことをしなくてもちゃんとわかるんだ」と反論しています。日米の映画でBGMのつけ方が違うことは確かです。米映画は主題曲がさまざまなシーンに合わせた変奏で流れます。一方、日本映画はシーンの転換の際に挿入されます。ジブリは同じ映画であっても日米で異なるサウンド・トラックを使っています。それはさておき、黒澤監督は子どもを決して受動的とは捉えていません。子どもは十分に能動的であり、自分の思いこみで映画の可能性を狭めるべきではないというわけです。

     

     黒澤監督のように、むしろ、子どもを能動的と捉えるべきでしょう。児童文学は、そうであるなら、子どもと大人が相互作用して成り立っています。それが児童文学の可能性です。児童文学を通じて大人と子どもが物語を共有するのです。読書の環境がない場合、子どもがその意義を見出すことは難しいことは否定しません。でも、その習慣があるなら、そうした共有があり得るのです。

     

     読み聞かせを考えてみましょう。もちろん、子どもが聞きたがっていることが前提です。大人は自らの解釈で読み始めます。子どもの反応を見ながら、読み方を修正します。時々、子どもは物語について大人に話しかけます。大人は子どもが納得できるように答えようとします。理解して話に戻るときもあれば、さらに質問するときもあるでしょう。そういうことが繰り返されているうちに、物語が終わりを迎えます。その後も、しばらく感想や意見を子どもと大人は語り合うのです。その作品を次に読むとき、それはもう以前のままではありません。大人は子どもの解釈に、子どもは大人の解釈にそれぞれ影響されます。この二人で過ごした時間が思い出になり、それもまた作品を構成する要素です。作品は読者から影響を受けるのです。

     

     読書の主導権はあくまで子どもにあります。自分で読めるようになってもそれは変わりません。ですから、児童文学は、一般書籍と違い、読者研究が欠かせません。子どもはどのように本を読むのかという問いに、経験詩学だけでなく、発達・認知心理学や保育・教育学の成果も参考にしています。読書が嫌いな子どもがいたとしても、それをその子のせいにしたり、「活字離れ」や「娯楽が多すぎる」などとき代や社会のせいにしたりすることは大人には許されません。それは読書を強制したり、十分な選択肢を与えなかったりしたためかもしれません。読書の魅力はテレビやマンガのそれと違うのです。

     

     少なからずの人にとって最初に出会う文学は児童文学でしょう。児童文学は文学のすそ野を広げる役割を持っています。それは文学の定型を示します。設定やキャラクターが奇抜であっても、物語の構成が定型的です。また、内容はナンセンスな詩でも、文学の形式が安定しています。安心して読めるのです。児童文学の魅力としてしばしばワクワクしたり、ドキドキしたりする想像性が挙げられます。それも確かです。けれども、構成の定型が安定して支えているからこそ、それが効果的に働くのです。この定型によって大人と子供が児童文学を共有できるのです。児童文学が定型の大切さを忘れ、先鋭的なったとき、文学の土壌はやせ細ってしまうでしょう。児童文学は今日において文学の原点であると共に、その広がりをもたらすものなのです。

     

     忘れていますが、大人は子どもからのプロセスを経てその姿があるのです。児童文学を読み、子どもと語り合うとき、自分自身のたどってきた過程を思い出します。それを確認するなら、自分の考えが相対化されて見方が広がり、成長していきます。確かに、児童文学は子どもによる、子どものための、子どもの文学ではないのです。

    〈了〉

    参照文献

    安達まみ、『くまのプーさん 英国文学の想像力』、光文社新書、2002

    西村雄一郎、『黒澤明と早坂文雄』、筑摩書房、2005

    日本児童文学者協会編、『子どもと本の明日』、新日本出版社、2003

    ピーター・ハント編、『子どもの本の歴史』、さくまゆみこ他訳、柏書房、2001

    ピーター・ホリンデイル、『子どもと大人が出会う場所』、猪熊葉子監訳、柏書房、2002

    -マーガレット・ミーク、『読む力を育てる』、こだまともこ訳、柏書房、2003

    ジャクリーン・ローズ、『ピーター・パンの場合─児童文学などありえない?』、鈴木晶訳

    ジャンニ・ロダーリ、『幼児のためのお話のつくり方』、窪田富男訳、作品社、2003

    ヴィクター・ワトスン&持ラグ・スタイルズ編、『子どもはどのように絵本を読むのか』、谷本誠剛監訳、柏書房、2002

    脱構築主義と建築

    • 2012.06.08 Friday
    • 04:06
     

    脱構築主義と建築

    Seibun Satow

    Jun, 07. 2012

     

    「茶室であるから和服でなければいけないというなどというのは伝統ではない。ジーンズでもさまになってしまうのが茶室の伝統というものである」。

    森毅『ジーンズでもさまになるのが茶室の伝統』

     

    1章 モダニズムを超えて?

     本来の意味とその用法が乖離している概念がしばしば見られる。しかも、それが建設性を欠く事態に至っている場合もある。建築における「脱構築主義(Deconstructivism)」がその一例である。

     

     脱構築主義建築はポストモダン建築の一派で、1980年代後半から2000年代まで世界的に広がりを見せている。ピーター・アイゼンマン(Peter Eisenman)やフランク・ゲーリー(Frank Gehry)、ザハ・ハディッド(Zaha Hadid)、コープ・ヒンメルブラウ(Coop Himmelb(l)au)、レム・コールハース(Rem Koolhaas)、ダニエル・リベスキンド(Daniel Libeskind)、バーナード・チュミ(Bernard Tschumi)などの名が挙げられる。彼らは実際の設計ではなく、建築思想家として先に知られている。1988年、ニューヨーク近代美術館においてフィリップ・ジョンソン監修で開催された「脱構築主義者の建築(Deconstructivist Architecture)」展に取り上げられた後、事業に携わるようになっている。「脱構築主義」という流派もこのMOMAの会で生み出されたと言ってよい。

     

     脱構築主義建築は退潮した主流のポストモダニズム建築に取って代わる形で流行する。ポストモダニズムはモダニズムの機能主義の反動として登場し、その克服を試みる。共通理解とされている合理的に住みやすい建築物は近代主義の呪縛である。しかも、それは歴史が一方向に進歩していくという進歩主義史観に基づき、過去の様式を抑圧している。合理的で機能主義的、進歩主義的なモダニズム建築に対し、装飾性や折衷性、過剰性などの回復を目指した建築様式である。1970年代後半から出現し、1980年代に流行する。磯崎新による筑波センタービル(1983)は日本におけるポストモダニズムの代表作の一つである。古い様式の型が引用され、懐かしさに新しさを求めている。脱構築主義はこうしたポストモダニズムの折衷主義を批判し、さらに複雑な構造の様式を追及している。

     

     脱構築主義は、異化効果のある建物を示して、共通了解がモダニズムのイデオロギーにすぎないことを暴露する。モダニズムに慣れきったために、閉塞感が蔓延している認識に違和感のある構築物によって喝を入れねばならない。形状が機能に従ったり、素材を忠実に生かしたりする必要などない。しかし、主流のポストモダニズムの折衷主義は中途半端な実験にすぎない。建築を本質的に純化すべきだ。脱構築主義者は、CADを利用するなどして設計過程から非線形的手法を導入し、構造や形状、表層、要素などに非ユークリッド幾何学を応用する。こうしたカオスを具現した設計によって、モダニズムの解体と共に、機能性・合理性・進歩性に代わる新しい価値観を生み出す。

     

     脱構築主義建築は、フランスの哲学者ジャック・デリダが60年代に提唱し、7080年代にそれを採用した「脱構築(Déconstruction)」に由来する。しかし、脱構築主義建築に「脱構築主義」の名称はふさわしくない。彼らは脱構築を理解していないからだ。

     

     デリダによれば、西洋形而上学は理性中心主義である。しかし、理性に対する批判は内部においてしか効果を持たない。乱暴に外部に身を置こうとすれば、まやかしの展望にとらわれてしまう。それはより内部に閉じこめられる結果に終わりかねない。内部にとどまりつつ、その領域特有の見方を背かせて、矛盾を露わにし、その囲いに破れを顕在化させる。これにより体系が不安定化して、外部に向かって囲いを解放する。脱構築は解釈にとどまらない。伝統的思考と実践への社会的批判を企て、従来排除されてきた異質なものの救出を目指している。それは静的で固定化した支配的なテキスト解釈を相対化し、その克服の可能性を模索する作業である。脱構築は古い哲学の構造を解体し、新しい哲学の生成に再利用する動的な営みである。

     

     脱構築の受容は70年代以降の欧州の状況と無縁ではない。70年代、エコロジーやフェミニズム、エスニック、マイノリティ、コミュニティ運動など新たな社会的ムーブメントが台頭し、価値観が相対化する。ロックやインディーズ映画、アングラ演劇、環境芸術、マンガといった新しい表現の自由や文化施設へのアクセス権の拡大要求が活発化、ハイカルチャーとローカルチャーの区分を解体し、現在で言う「サブカルチャー」が生まれる。それは権利としての文化の認知と言える。

     

     こうした脱構築を建築に導入する際、従前の流行だけをみているだけでは不十分であろう。建築とは何かを問い直す必要がある。

     

    2章 建築のリテラシー

     慣れや飽きが生じると、建築において様式や型の見直しが始まる。「様式」は洗練・形成された共通了解、その記号化が「型」である。建築の歴史にはこうした様式の革新や型の更新が見られる。様式は建築における文法であり、構成要素は単語である。語と語が組み合わさって文が構成される。文と文が組み合わさって文章が構成される。語や文にはそれぞれ組み立てから生じる役割があり、その意味を決定するのは文脈である。ポストモダニズムは過去の様式を無視して、その構成要素を引用している。それは文法と切り離して古い単語だけを復活させたようなものだ。慣れや飽きの打破と共通了解の破壊を混同してはいけない。

     

     建築は、目的に立脚して、人間関係を形成する物理的枠組みを提供する。その基本構造は梁と柱であり、フックの法則によって維持される。どういった寸法の中で人々に働きかけ、そこに居る人々の行動や関係をいかに導くのかが建築家の念頭にある。2畳の茶室と2万人収容の室内競技場を同じように考えて設計することはできない。中にいる人に構築物は話しかける。アフォーダンスの実践だ。空間と人間のつながりを促し、場の雰囲気をつくる。建築物は、もちろん、個々の人とのかかわりについては多義的である。建築家と人々のとの間の共通了解に基づいて、特定の建築物の使用目的が規定される。ある建物が学校なのか、モスクなのか、裁判所であるのかはそれに依存する。それが建築のコミュニケーションであり、そこにリテラシーがある。建築は価値の共有、すなわち共通了解のために取り組まれるのであって、自己表現などない。

     

     建築事業は受注生産が主である。費用も高額、携わる人数も多く、自然環境の下で作業が行われ、工期も長い。こうした条件で進められるため、品質の保障は最高水準ではなく、最低限度が目指される。また、構築物は完成後も保守・修理が欠かせない。補修がしやすく、そのコストがかからないことも現実的な要請である。

     

     建築は空間に区切りをつける。その際、収容人数や行為目的によって求められる空間の大きさが可変する。しかも、出入り口のない建築空間はない。連続していながら、区切りがあるから、外から入ってくることを関連づけて考える必要がある。駅の通路や学校の廊下、劇場のホワイエなどいずれも異なっている。

     

     また、広場や市場が示しているように、公共空間も建築の様式によってもたらされる。構築物が秩序立って都市が生まれる。その都市は集合として連続体を持っている。集合を無視して、ある建造物をそれだけでデザインをすることはできない。建物内から見える風景と外から見えるその建物を含む光景を融合して考慮しなければならない。その構築物は時間を超えて見られ、使われる。そのようにして建築は過去=現在=未来をつなぐ。建築は人々の願いや価値などに基づく共有された物語を形作るものである。

     

     モダニズムの機能性が具体的と言うよりは、抽象的な居住者を想定していたり、建築様式の歴史性を無視したりしたことは確かである。けれども、その点ではポストモダニズムも脱構築主義も同類である。高齢者や障害者、病人、子どもなど社会的弱者を考慮していないし、自然・社会環境との調和も軽視している。

     

    3章 オルセー美術館

     建築における脱構築は、こう見てくると、新奇な自意識過剰のデザインで反モダニズム運動を展開することではない。建築は目的に基づいて設計される。時代的・社会的背景に応じて、その目的を変え、別のコンテクストを与えて構築物を再利用し、新たな共通了解と風景、人のつながりをもたらすことと考えるべきだろう。建築家は気欲的であらねばならない。

     

     時代や社会の変化に伴い、古びてしまった構築物を別の目的で再利用する。内外双方から見える風景も一新される。国内の政治・経済・社会状況がある構築物を生み出す。それが変化すると、その建物はかつての意義を失う。しかし、新たな文脈を与えることでそれは復活する。共通理解も内外双方からの風景も人のつながりも、それによって、刷新される。

     

     しかも、使い古された構造物はそれ自体にさまざまな使用履歴があるので、非常に個性的である。前加工をした無個性な処女材を使う新規事業のようにはいかない。再利用する際に、その固有さを熟知するため、内部にとどまりつつ、詳細な診断=読解が不可欠である。さらに、建築基準の規制も組み入れる必要がある。

     

     その一例がオルセー美術館である。1986年に開館したオルセー美術館は。駅舎兼ホテルを再利用した構造物である。1900年のパリ万国博覧会開催に合わせ、オルレアン鉄道はヴィクトル・ラルーの設計によるオルセー駅を開業する。オルレアンやフランス南西部へ向かう長距離列車のターミナルとして位置づけられ、10線以上のホームと宿泊施設も備えている。けれども、1939年に近距離列車専用駅へと変更され、施設も大幅に縮小する。その後、さまざまな目的で使われ、取り壊し案も浮上する。1970年代からフランス政府が保存活用策を検討した結果、19世紀美術を展示する美術館として再出発することが決定される。展示品の描かれた時代の雰囲気が欲しいので、できる限り、原型を生かす考えがとられている。美術館の中央ホールには地下ホームの吹き抜け構造がそのまま活用されている。

     

     これは、目的をそのままに、古い建物をリフォームしながら使い続けることではない。建築は目的論的であり、その変更が極めて重要である。そもそも、その用途では経済性から維持ができず、文化事業の文脈で古びた構造物を再利用するもことである。80年代、欧州は第2次石油ショックを契機に長期不況に陥る。失業のみならず、不足した労働力として受け入れた移民の増加も社会問題化する。特に都市の政策担当者は文化事業を都市の活性策として打ち出す。文化の香りや高いアメニティなどが都市のイメージを決める。文化への支出は補助ではなく、都市再生のための投資へと変わる。こうして文化と経済の思惑が一致する。

     

     取り壊せば歴史性は消えてしまう。それは一朝一夕でつくれるものではない。可能な限り原型を生かしつつ、歴史的建造物を別目的で再利用する。それに伴い、共通了解・風景・人間交流が革新される。このような動きは、オルセー美術館に限ったケースではない。世界的な広がりを見せている。横浜赤レンガ倉庫もこうした際活用の例の一つである。新規事業の構造物に都市の活性化を期待することは、見栄っ張りの首長が示してくれているが、垢抜けない。利活用の試みこそ「脱構築主義」にふさわしい。建築と脱構築を本質から理解して問うならば、あのような用法をするはずもない。脱構築は方法論であるのに、なぜ潮流の名称に使われるのか理解に苦しむ。彼らには「ポストモダニズムラディカルズ(Postmodernist-radicals)」の方が合っている。

     

     311は無数の建物を破壊している。多くの避難者は避難所に身を寄せたものの、不自由な生活を余儀なくされる。中には、都心の閉鎖予定のホテルに受け入れられた人もいたが、概して、居心地の悪さを訴えている。せっかく助かったのに、仮設住宅での孤独死の犠牲所も出ている。住まいはたんなるねぐらではない。

     

     311は建築とは何かを改めて問い直させる。建築を通じた共有された物語の尊さを人々は再認識している。これを惰性として打倒しようと躍起になっていたのは真に観念的である。再利用としての脱構築は今後ますます重要性が認知されていくだろう。

     

     加えて、日常のありがたさを痛感し、建築に求められるのは、災害への強さだともつくづく思い知っている。災害がいつ襲ってくるかわからない。阪神・淡路大震災に関する各種のデータから自信の際には、建築物の耐震性が最大の防災であると明らかになっている。6000人の犠牲者のうち、約5000人が木造家屋の倒壊によって発生5分以内に亡くなったと見られている。また、中越地震では、高層建築の長周期地震動の課題が顕在化している。さらに、311では、液状化現象やオール電化の高層マンションの脆弱性なども露呈している。進化する災害と被害を考慮しない建築はあり得ない。既存の建物も、現代の文脈で、動的に再検討せざるを得ない。現実的に脱構築の発想が必要とされている。

     

     311を経験した建築家は日常性に依存し、非日常性を強調した設計をしていい気になっていることはもはやできない。共通了解・風景・人間交流を揺り動かすなど巨大地震・津波の前では場をわきまえない冗談でしかない。建築家の仕事は世間を驚かせることではない。人々と価値を協創し、過去=現在=未来の織り成す物語を共有しようとすることだ。

    〈了〉

    参照文献

    岡本清正他編、『現代の批評理論第二巻』、研究社出版、1988

    川崎賢一他、『アーツ・マネジメント』、放送大学教育振興会、2002

    香山壽夫、『建築家の仕事とはどういうものか』、王国社、1999

    香山壽夫、『人はなぜ建てるのか』、王国社、2007

    宮内康他、『現代建築』、新曜社、1993

    森毅、『みんなが忘れてしまった大事な話』、ワニ文庫、1996

    Philip Johnson, “Deconstructivist Architecture”, Museum of Modern Art, 1988

     

    文学とデータ

    • 2012.05.29 Tuesday
    • 20:55
     

    文学とデータ

    Seibun Satow

    May. 28. 2012

     

    In the same way that past federal investments in information-technology R&D led to dramatic advances in supercomputing and the creation of the Internet, the initiative we are launching today promises to transform our ability to use big data for scientific discovery, environmental and biomedical research, education, and national security”.

    John Holdren,

     

     一人殺されただけでも大変な問題で、数字に還元できない。しかし、人間を数字に還元しなければ政治の話が出来ない。私はその違和感がある。(略)科学といい、統計という発想の中には、個人を消去して特定のカテゴリーの中の番号に還元してしまうものの考え方が内在している。それは残酷です。私はそこにこだわるのです。

     

     加藤周一は『20世紀の自画像』においてこう述べている。具体性・個別性への志向が文学のあるべき姿だとしばしば文学者から主張される。世界を外部あるいは境界から把握する叙事詩的認識が後退し、内部より見る抒情詩的視線が近代の文学の傾向である。けれども、真の主役は社会である。ある具体的な個別対象を扱いながら。社会の一側面を浮き彫りにする。思考過程をトップダウンではなく、ボトムアップにしただけで、社会を取り扱うことには変わりはない。

     

     一般性・抽象性を理解していなければ、個別性・具体性を描くことは困難である。統計はある目的に基づいて収集される。しかし、その結果はたんなる数字の分類ではない。分析し、意味を読み取る必要がある。

     

     加藤周一は殺人を比喩にしている。その意見を読む限り、彼が日本の殺人の傾向を承知していない。日本における主な殺人は心中である。加害者と被害者が顔見知りで、犯行現場が生活の場ということも少なくない。特に、近年、介護疲れが原因と推測できる事件が見られる。殺人の統計データを丹念に読み解くなら、そこから抽出できるストーリーがある。個々の事件にはそれぞれのコンテクストがある。ある事件を個別性から見るか、一般性から捉えるかが重要ではない。そのコンテクスト読み取れるかどうかがその事件についての真の理解にほかならない。

     

     人々は実感を覚えて生きている。しかし、それが社会の実態を反映しているとは限らない。収集したデータを分析すると、実感と実態がずれていることも少なくない。実感に没入し、なぜそうした乖離が生じているのかまで問う文学作品は多くない。

     

     最近、具体性・個別性の取り込み、すなわちコンテクストへの目配りは、人文・社会・自然科学のいずれの分野でも常識的に見られる。加藤周一の出自でもある医学を例にしよう。

     

     医学では、証拠に基づいた医療、すなわち「EBMEvidence-Based Medicine)」の他に、90年代から語りを基盤とした医療、すなわち「NBM(Narrative-Based Medicine)」の重要性も認知されてきている。患者の語る病の体験の物語をそのまま拝聴・尊重する。医療従事者は、病に対する解釈・対処を患者の人生というコンテクストの中で展開される物語として把握し、その語り手を尊重する姿勢をとる必要である。この物語は複雑に織り成され、多様で、絶対的なものはない。患者と医師とのこうした対話も治療の重要な一部である。

     

     こう考えてくると、むしろ、文学は、数字に還元できない固有な事象を扱うと言いながら、自分の意識の優越さのためにそれを選んできたのではないかと疑問がわく。先に言及した介護疲れの心中のような典型的な殺人事件に寄り添う文学作品にお目にかかることは稀である。個別性・具体性への志向は科学の影響力の伸長に対するアイロニーにすぎず、自身のすべきことを吟味しない怠惰の言い訳にすぎない。

     

     今日、流通するデータが増加し、それらが社会を構成する重要な要素の一つになっている。政府も企業も法人もデータ・ベースを持っている。社会性を考慮するなら、デジタルデータと文学も向き合わざるを得ない。データを丹念に読み解き、そこから抽出できる過去・現在・未来の社会のある姿を具体的・個別的なストーリーに紡ぎ出す。それが今の文学のすべきことの一つである。そのために必要なのはコンテクストの多様性を読み取ることであって、統計上非常に稀なケースを無視することではない。

     

     『ネイチャー』誌は089月号で、特集「ビッグデータ ペタバイト時代の科学(Big data: Welcome to the petacentre)」を組んでいる。ペタはテラの1000倍のデータ単位である。もはや「ペタバイト」の時代が到来しているというわけだ。「ビッグデータ」は構造化されていない大容量のデジタルデータを効率的に解析し、各種の実用的な情報を導き出すトレンドの総称である。カーナビを通じた交通情報やポイント・カードによる消費者情報、塩基配列解析から得た遺伝子情報、粒子加速器の実験結果など多岐に亘る。

     

     ビッグデータはたんに量が巨大なだけではない。リアルタイムで収集・解析される速度、さまざまな種類のコンテクストを持つ多様性という特徴がある。

     

     政府を始め各種の機関が広範囲に及ぶ膨大な量のデータを毎日のようにネット上で公開している。米国のIT調査会社IDCは、116月、この年の世界の年間総データ量を1.8ZB(ゼタバイト)と予測している。これは4.7GBの標準的DVDにして約3800億枚に相当する。IDC1237日の発表によると、世界のビッグデータ市場は2010年の32億ドルから15年には169億ドルに成長すると見込まれる。また、同じく調査会社のガートナー(Gartner)は、116月のレポートで、ビッグデータが毎年少なくとも59%ずつ増加し続けるだろうと予想している。まさにデータ爆発である。

     

     ホワイトハウスは、12329日、総額2億ドル以上の「ビッグデータ研究開発イニシアティブ(Big Data Research and Development Initiative)」の概要を発表している。このイニシアティブでは、米国科学技術政策局(OSTP)、国防総省、国立衛生研究所(NIH)、国立科学財団(NSF)、エネルギー省、米国地質調査所(USGS)の6つの政府機関が主導し、巨大なデジタルデータの組織化や知識抽出等を行うための技術やツールの開発を担当するとされている。あわせて、議会図書館(LC)や国立公文書館(NARA)、国立医学図書館(NLM)によるプログラムにも活用される。

     

     とは言うものの、専門家でなければ、意味を読み取れないものも少なくない。けれども、データのチェックも新たな集合知、すなわち「クラウドソーシング(Crowdsourcing)」を用いて効率よく行うことができるようになっている。これは、不特定多数の人に業務を委託する手法である。自分でできなくても、公益性が高ければ、サイバー空間にいる専門家のサポートをお願いすればよい。

     

     専門的なデータであっても、ITの進化に伴い、直観的な理解が可能になっている。パソコンの処理能力が向上し、高性能のソフトウェアが登場、クラウドコンピューティングが進展したため、大量のデータを容易に可視化できる。このPBの大規模データを処理するために、「ハドゥープ(Apache Hadoop)」が考案されている。これは大量のパソコンをつないで分散処理をするJavaソフトウェア・フレームワークであり、フリーで配布されている。

     

     一般ユーザーでも、今ではデータを取り扱うことが簡単になっている。グーグルが提供する無料サービスだけで地理的にデータを見やすくすることができる。入手したデータを「Googleドキュメント」内の各種サービスで整理し、それをデータ・ベース・ソフト「Fusion Tables」を使って「Google Map」上で展開する。これにより生のデータだけではわからなかったインヴィジブル・マップがヴィジュアル化される。

     

     正直、地方・中央政府の予算もこうした可視化が実施されていてもおかしくない。ニセコなど一部の例外を除くと、財政学の専門家でもなければ意味が読み取れない。また、複雑怪奇なことで知られる国の特別会計は財務省の担当者くらいしかわからないとされている。政府の予算は共有情報であるにもかかわらず、それが有権者と分かち合えない。けれども、ソフトを用いて、これを直観的に理解できるようにすれば、市民の政治参加も促進される。

     

     哲学や文学も、1980年代に、高度消費社会を根拠にシミュレーションの時代が到来し、データ・ベースの重要性が増すだろうと予言している。ある現象にまつわる諸要素の数値を少しずつ変えて入力してコンピュータに計算処理させ、蓋然的な見込みの結果を直観的に理解可能なプレゼンテーションとして見せる。こうしたシミュレーションは真理ではなく、相対的なデータであって、その実用化は政治と経済、科学の間の駆け引きにすぎない。哲学や文学によるシミュレーション科学への批判を要約すればそうなる。

     

     蓄積されたデータ・ベースを利活用してリアルタイムの動向を表示したり、過去を再現したり、未来を予測したりする。こういう可視化がシミュレーションであり、データ・ベースはこのヴィジュアル化されて初めて人々の間で共有される。従来は扱うことにおできなかった大量のデータから今の物語を紡ぎ出す。現代社会はデータによって構成されている。それを無視することはできない。蓄積されたデータに基づくシミュレーションを通じて過去は未来を左右し、未来は現在を規定し、リアルタイムの動向が過去と未来に影響を与える。利活用の履歴に応じて、実用的にデータ・ベースは改変される。データを可視化して利活用することで、新たな文学を展開できる。

     

     これほど社会に浸透しているにもかかわらず、情報の世界と格闘する文学は、あまり見受けられない。最も素朴なデータ社会についての文学的対処はそれを小道具として作品に登場させるか、懸念を描くかのいずれかであろう。それは想像力の貧困さの現われでしかない。多くの企業は個人レベルでのビッグデータの収集・分析により細かな消費者像を抽出している。こうした状況下、文学における登場人物のプロファイリングは恣意的だと物笑いの種になりかねない。文学者も流通しているデータをソフトで可視化し、それが物語るストーリーを作品のモデルにする。データは作家の想像力を上回る社会の一側面を示すだろう。そうした時代が来ている。

     

     先に述べた通り、データについて考える際に重要なのは、どのようなコンテクストを見出せるかだ。データは文学者に多様なコンテクストの存在を教えている。コンテクストを読み取る方法を提供しているとも言える。ビッグデータ時代のもたらすコンテクストに真摯に向き合うなら、文学は大いに進化していく。

     

     19世紀、西洋の自然主義文学者は、近代という未知の社会を自然科学を援用して描こうとしている。データ爆発の現在、改めて彼らの試みを見直す必要があるだろう。今日の文学者は過去とその作品の思想を共有し、自らを体系に位置づけながら、言語コミュニケーションによって今を浮き彫りにしようとする表現者のことである。

    〈了〉

    参照文献

    加藤周一、『20世紀の自画像』、ちくま新書、2005

    Data journalism Handbook

    http://datajournalismhandbook.org/

    Gartner

    http://www.gartner.com/technology/home.jsp

    IDC

    http://www.idc.com/

    Nature

    http://www.nature.com/nature/index.html


    格付けとSRI(社会的責任投資)

    • 2012.05.24 Thursday
    • 04:07
     

    格付けとSRI

    Seibun Satow

    May, 23. 2012

     

    「当たるも八卦当たらぬも八卦」。

     

     大手格付け会社フィッチ・レーティングスは、2012522日、10年物日本国債の格付けを1段階引き下げ、上から5番目の「A+」にしたと発表する。日本の債務残高がGDP2倍以上にまで拡大し、財政再建に向けた取り組みが遅れているというのがその理由である。同社は、0211月に日本の長期国債を「AA−」に下げており、今回はそれ以来の見直しである。チリや中国、サウジアラビアと同じランクだった日本国債は、この結果、エストニアやイスラエル、スロバキアなどと並ぶことになる。

     

     市場経済における格付けの必要性は広く浸透している。しかし、格付けに関して、これまでその正確さの疑問が投げかけられる事案が少なからず起きている。破綻した企業に直前まで高評価を与えていたケースも一度や二度ではない。エンロン然り、GM然りである。しかも、そうした失態の後にも同様の見込み違いを繰り返している。

     

     一般の格付け機関は定量データである財務諸表を主な根拠としている。その組織体の財務に関する各種の資料を分析して、これらの機関は証券や債券の投資としてどれだけリスクがあるかをランク付けする。ただ、財務監査が厳密に行われていることが前提である。ギリシャ国債に対して、ムーディーズは21段階の上から5番目、スタンダード&プアーズは同7番目の投資適格を与えている。

     

     ギリシャ政府が財務状況を偽って公表していたことは、格付けの不適当さの言い訳にはならない。と言うのも、フランスの格付け機関「ヴィジオ(Vigeo)」が097月の時点でギリシャ国債をEU27か国中最低ランクにしていたからだ。これは巨額の債務が発覚する前の判断である。

     

     ヴィジオは「社会的責任投資(SRI: Socially Responsible Investment)」を重視する投資家向けに格付けを提供している。財務よりも、企業統治や環境、雇用への配慮など社会貢献に関する定性を含めたデータを指標の根拠に置いている。財務諸表を軽視しているわけではなく、それを絶対視していないだけだ。いくら儲けていても、社会的・道徳的に感心できないことを行っている企業は高い格付けを得られない。

     

     こうした格付けには、実は、タイムラグが少ないという利点がある。財務諸表を参考にすると、過去のデータに基づくことになるので、評価を発表するときには、現実の状態とずれてしまいかねない。一方、ヴィジオが関心を寄せるのは企業の文化や体質である。これは少々の時間の間で変わるものではない。企業の生活習慣から将来の疾病のリスクを格付けているとも言える。

     

     もちろん、今日、多くの企業や経済団体が「社会的責任」を謳っている。しかし、実践しているかと言えば、形式にとどまっているケースも少なくない。

     

     フクシマ以前、東京電力は非常に信頼性の高い投資先と多くの格付け機関は評価している。ムーディーズもスタンダード&プアーズも、21段階の上から3番目に位置付けている。

     

     ところが、ヴィジオは東電に極めて厳しい評価を下している。東電は、2009年のレポートで、5部門中、企業統治と環境の2つで5段階評価の下から2番目の「−(シングル・マイナス)」である。企業統治部門は100点満点のわずか2点と見るも無残だ。社外取締役の数と独立性が不十分、役員報酬が高額、監査がお手盛り、情報開示がおざなりなど問題点だらけである。また、環境部門では、07年の柏崎刈羽原発の事故の情報公開がお粗末であり、再生可能エネルギーへの取り組みに不熱心と指摘されている。なお、ヴィジオは、九州電力など他の電力会社にも低評価を示している。

     

     ヴィジオのアナリストは別に予言者ではない。企業の内実が見かけとずいぶんと違うことは、一般人でも、経験的に知っている。財務のごまかし言うに及ばず、開示されている情報は文句のつけようがなくでも、社内に多くの不安定要因を抱えているケースも珍しくない。人事制度が恣意的であったり、組織内コミュニケーションが一方的で社員のやる気がそがれていたり、目先の儲けばかりとらわれてコンプライアンスの意識が低かったりなど不祥事が発覚した後にそんなずさんさが報道されることもしばしばである。こうした企業に欠けているのは社会的責任へ向き合う姿勢である。ヴィジオは、そこに着目して、情報を収集・分析する。

     

     国債の場合、その国の民主主義的制度がどれだけ制定され、機能しているかが重要な基準となる。政府の意思決定が公正で透明であるか、報道の自由が保障されているかなどが財政状況よりも重視される。ギリシャは、民主主義的な体制に問題があると見なされ、EUで最低ランクの評価をされている。実際、債務問題発覚後、同国は民主主義の仕組みの脆弱さが解決の足を引っ張っている。

     

     気になる日本であるが、先のヴィジオの評価はイタリアと同格である。イタリアはギリシャやポルトガルに次いで低い。その理由がこれまた興味深い。市民・労働者の権利を尊重する姿勢が政府に低いからである。

     

     ヴィジオによる日本国債の今のランクは、民主主義的な仕組みに問題があることが主な根拠であって、欧米と比べて消費税の増税の余地があるかどうかは二の次だ。けれども、現在永田町や霞が関を中心に進行中の増税論議に、こうした認識が欠けている。かりに今回の消費税の増税法案が可決されたとしても、体質改善されなければ、ヴィジオの格付けは上がらないだろう。

     

     開発独裁のように、かつては経済成長のためには民主主義的制度の制限もやむを得ないと考える政府も少なからず見られている。けれども、民主主義を取り入れた方が中長期的には信頼のある発展が望める。

     

     ヴィジオの主な顧客は、欧州の金融機関や年金基金、赤十字などである。日本の組織で情報を購入しているのはわずか2社だけである。そのうちの一つである朝日ライファセットマネジメントがヴィジオベルギーの協力を受けて、SRIの投資信託事業「あすのはね」を展開している。同社は、311以前から、電力会社に投資をしていない。その一方で、速水禎チーフファンドマネジャーは、11427日、同社HPのコラムにおいて、自然エネルギーの可能性を認めている。同マネージャーは、ツイッター上でも、日本の原子力政策には核燃料サイクルがあるが、技術的・経済的に無理があるとつぶやいている。しかも、国策でもあるので、この事業をおいそれとはやめられない。原子力事業を抱える電力会社は投資先として魅力がないというわけだ。

     

     現代の社会における諸課題を考え、社会の中の組織を自覚して事業を展開する。こうした社会的責任に向き合っている組織体が中長期的には有望である。それがSRIを重視する格付けである。「社会責任資本」を中心に据え、「価値協創」を試みる組織体がこれからの社会を切り開く。国家も同様だ。ジョン・メイナード・ケインズは、セーの法則、すなわち供給が需要を生み出すという発想を打ち砕き、それを逆転させる。しかし、今や、供給と需要は相互作用をしている。両者の相互作用の中で価値が協創されていくのが今後の経済社会だろう。その際、格付け機関も社会的責任から評価されるに違いない。

    〈了〉

    参照文献

    大野博人、「格付け 見えることと見えないこと」、『朝日新聞』、20111120

    Vigeo

    http://www.vigeo.com/csr-rating-agency/

    朝日ライファセットマネジメント

    http://www.alamco.co.jp/fund/sri/

    速水禎

    https://twitter.com/#!/hayamitadashi


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    徳治主義的倫理の時代 「コンプガチャ」問題によせて

    • 2012.05.11 Friday
    • 07:17
     

    徳治主義的倫理の時代

    Seibun Satow

    May. 10. 2012

     

    “How far that little candle throws his beams!

    So shines a good deed in a naughty world”.

    William Shale spear ”The Merchant of Venice

     

     「コンプガチャ」を消費者庁が問題視する態度を表明した途端、201259日、ソーシャルゲームを運営しているDeNAを始め大手6社がこのシステムを5月末で廃止する方針を明らかにする。この動きには、正直、彼らが責任を持った事業展開してきたのかと首をかしげざるを得ない。問題があることは薄々気づいてはいたが、他もやっているし、とりあえず騒ぎになるまで稼いでおこう。そんな思惑が感じられる。

     

     ソフトウェア産業は、世界市場を視野に入れ、技術革新の速度が速い。そのため、安易な規制は成長を抑制することになりかねない。公益性が見込まれる最先端の科学技術を扱っているから、法的規制が厳しく定められていない。けれども、それは無法を容認することではない。責任が伴うのは当然だ。別の施術倫理のモデルが適用されるべきである。

     

     現在、多くの企業は二つの倫理アプローチを採用している。

     

     一つは、コーポレート・ガバナンス型である。株式会社制度の責任はアカウンタビリティによって果さる。それは、主に、経営者が企業の意思決定について株主に対して行うことを指している。株主総会や取締役会での執行役員による説明・報告がアカウンタビリティの実際である。最近では、ステークホルダーもそこに含まれるようになっている。そのことを通じて、企業は法的・道義的責任を考慮し、社会における存在理由を示せる。

     

     もう一つは法令・諸規則の遵守を目的とするコンプライアンス型の倫理モデルである。個人裁量を可能な限り限定し、個別具体的で詳細なルールを基準として、それを組織的監査・統制によって周知徹底させる。コンプライアンス違反を見かけたり、自分の関わることにその疑いを感じたりしたら、内通窓口あるいはホットラインで相談する。

     

     しかし、科学技術の最前線にはこれが適用しにくい。進展する速度が速く、また関連領域が急拡大する。法的規制は事後的に制定されるため、とても間に合わない。拡大解釈に安易に依存すれば、研究・開発を委縮させてしまう。

     

     こういった領域では、消費者を含むステークホルダー間の価値の共有・協創を通じた継続的改善による倫理モデルが適している。価値・原則・許容範囲の明確化して、責任を伴った権限の委譲が必要である。教育・研修を通して理解を深め、各技術者に責任ある意思決定・行動を求める。言ってみれば、「価値協創型」のモデルを採用すべきだ。

     

     コーポレート・ガバナンス方やコンプライアンス型が法治主義的だとすれば、価値協創型は徳治主義的である。前者が性悪説を前提にするのに対し、後者は性善説に立脚する。

     

     徳治主義的倫理モデルの必要性は、法治主義の限界に起因する。人間の本姓についての楽観的見通しや信頼によるものではない。実際、性善説で臨まざるを得ない場面が増えている。

     

     国際環境条約は締約国に対して性善説をとっている。温室効果ガスの排出量の削減を各国に義務化し、罰則を規定しても、批准しない、もしくは途中で離脱するのであれば、効力がない。条約に批准したのに、達成できなかった際には、国益よりも人類益のために調印したとしてやむを得ない事情があったと好意的に受けとめる必要がある。国家を超える強制力を持った組織体が存在しない以上、性悪説に基づく法治主義は現実的ではない。

     

     このように、理想主義ではなく、現実主義として徳治主義的倫理モデルが採用されている。性悪説に則って法的規制を厳しくすれば、違法・脱法行為をなくせるわけでもない。近代刑罰論の父チェーザレ・ベッカリーアヤは刑罰による犯罪予防の限界を認めている。その上で、『犯罪と刑罰』(1764)においてこう結論づける。「犯罪予防のもっとも確実で、しかし同時にもっとも困難な方法は、人々を悪い方向におもむかないような性質にすること、つまり教育の完成である」。

     

     これは極めて現実味を持った指摘である。科学技術の最前線に立つのであれば、有徳の士とならざるを得ない。徳なき着、科学技術に携わるべからず。科学技術を進展させたいのであれば、ジェダイを育成する制度を整備する必要がある。現代はそんな徳治主義的倫理が求められる時代でもある。

    〈了〉

    参照文献

    梅津光弘、『ビジネスの倫理学』、丸善、2002

    札野順、『技術者倫理』、放送大学教育振興会、2004

    C・ベッカリーア、『犯罪と刑罰』、風早八十二他訳、岩波文庫、1938

    政治決断と遅延評価

    • 2012.04.20 Friday
    • 23:10
     

    政治決断と遅延評価

    Seibun Satow

    Apr, 19. 2012

     

    「話から察すると、城代はなかなかの玉だぜ。てめえがばかだと思われてるのを気にしねえだけでも大物だ。ところでその大目付の菊井だが、お前達が"やっぱり話せる。やっぱり本物だ"なんて言ってるとこから見ると、こいつはまず、見掛けにゃ申し分はねえ。らしいな。 しかし、人は見掛けによらねえよ。危ねえ危ねえだぜ」。

    黒澤明『椿三十郎』

     

     1978年、小平国家副主席は、尖閣諸島の領有をめぐって、「主権問題は棚上げして共同開発しよう。次の世代にはわれわれよりももっといい知恵があるに違いない。」と表明している。当面の最大の目標は日中平和友好条約の締結であり、その障壁になる諸問題は棚上げにしたというわけだ。尖閣諸島の管轄権は日本にあり、中国もそれを尊重する現状維持が確認されている。

     

     これは「遅延評価(Lazy Evaluation)」の発想である。その成否の影響が非常に大きい場合、どのように環境が変化するかわからないので、判断をできる限り先延ばしにする。工学において、こうした評価法は、自然環境の下での施工・使用が前提で、大勢の作業員が加わり、高額の公共投資に基づく受注の土木事業で採用される。

     

     なお、ここでの遅延評価の用法は、情報科学のそれとは異なっている。また、工学の三区分も便宜上であり、必ずしも一般的ではない。

     

     エンジニアリングを設計における制約の硬軟を基準にすると、機械系・土木系・システム系の三つに大別できる。

     

     機械系は、不特定多数をユーザー対象とし、主に人工環境での製造が想定された大量生産品を指す。環境を最適化できるなど作業工程での制約はソフトである。もし人手では難しければ、そこは自動化すればすむ。機械系のエンジニアの制約処理は逐次的で、工程間での環境変化を無視できるため、決断は早いほどよい「先行評価(Eager evaluation)」がとられる。機械系のエンジニアは、このような条件から、最高品質を目指す。

     

     一方、土木系は「ハード制約(Hard Constraint)」である。自然条件下で、なおかつ大勢の作業員が従事する。何が起こるかわからない。しかも、通常、公共投資の受注であるため、使用目的が明確である。制約が硬く、設計者は判断を可能な限り遅らせる「遅延評価」を採用する。こうした事情から、最低限度の品質を確保することに苦心する。

     

     機械系では、ビスが100本必要だとすれば、それだけ用意する。エンジニアは無駄を極力削減し、最高品質を狙う。一方、土木系ではボルトが1万本要るのなら、2万本を組み入れる。作業員の数が増せば、ミスも確率論的に増加する。バカ力を出してトルクレンチでボルトを締め付け、その頭を吹っ飛ばすことも頻繁に起こる。疲れてくれば、無駄な力が抜けて締め、1万本の確保はできるだろうと余裕を持って設計せざるを得ない。

     

     システム系は機械系と土木系の中間である。使用環境は自然であるが、エンジニアは個別品と言うよりも、システム品を設計する。航空機や船舶の製造がこれに含まれる。

     

     環境の変化が予想され、関係者が極めて多数に亘るハード制約の場合、遅延評価の発想が効果的である。小平が領土問題で即決を避けたのは賢明だろう。これが「知恵」というものだ。小平以外にも、この姿勢をとった政治家がいる。その一人が鈴木善幸元首相である。彼の知恵がなかったら、311の被害はさらに拡大していたかもしれない。

     

     青森県から茨城県にかけての太平洋沿岸で、岩手県だけ原発が立地していない。しかし、その岩手にもかつて原発建設の計画が持ち上がったことがある。最有力候補地は、信じがたいことだが、旧田老町摂待地区である。「津波田老」に原発を建設するなどまともな神経では考えられない。2011311日に同地区を襲った津波は、約14mの防潮堤を乗り越え、その倍ほどの高さまで山肌を抉り、海岸線から1km以上先まで洗い流している。計画が実施されていたらと思うと、ぞっとする。

     

     2012121日付『朝日新聞』の「原発国家 三陸の港から」によると、70年前後に通産省が地質調査を行い、80年に、中村直知事が県議会で「県民生活の安定や産業振興に原子力を含む大規模電源が必要」と表明、82年には、県が摂待地区を始め四か所を候補地として東北電力に売りこんでいる。

     

     県の経済界は誘致に期待を示す。また、玉沢徳一郎や小沢一郎など県選出の自民党の国会議員も賛成を表明する。その一方で、地元の漁民たちは強く反対を主張している。三陸の世論は真っ二つに割れてしまう。

     

     この時、カギを握っていたのが鈴木善幸首相である。彼は食えないタヌキぶりを発揮し、原発誘致に関する決断をとにかくずるずると先延ばししている。早野仙平田野畑村長が「原発交付金は村予算の4倍、30億円以上ももらえるが、使う知恵がない」と伝えると、ただ「そうだな」と満足げにつぶやいたとされる。

     

     善幸は団結を大切にし、内部対立を嫌う。典型的な調整型の政治家で、激しい派閥抗争の末、大平正芳首相の急死に伴い、後継に選任された理由の一つもそこにある。首相就任に際し、「和の政治」を掲げている。もし原発誘致の是非をはっきりさせてしまえば、地元の分裂は決定的になる。その対立は将来に亘って続く。これを何としても避けねばならない。

     

     善幸は、首相退陣後も、決断を遅延させる。漁港の改良のために、三陸を訪れても、原発の話は口にしない。その後、原油価格は下落、省エネの取り組みもあり、電力もだぶつく。三陸の原発計画はいつの間にか立ち消えになっている。

     

     善幸がとった手法は、遅延評価の発想に基づいている。目に見える決断よりも、目に見えぬ調整を選び、のらりくらりとした姿勢にしたたかさを感じさせる。善幸と比べると、やたらまばたきをしながら、独りよがりの決断を大声で叫ぶ政治家が未熟に見える。首長としては、外形標準課税や新銀行東京、教職員志望者の減少、公費による豪勢な海外旅行、気ままな登庁などの失政・スキャンダルは思い浮かぶが、成果は探し出すのが困難なほどである。しかも、311による防災対策の根本的見直しや東電改革にも当人に熱心さが見られない。そこに今回の都の予算による尖閣諸島の購入表明だ。

     

     即断は、未来が線的に続くならば、有効である。だが、実際にはそうではない。将来の見通しの甘さや無責任が露呈するものだ。日本の政官は、既成事実をつくって反対論を抑えこむ目的から、先行評価を好む。遅延評価をとらず、判断を速めたために、地元が二分しただけでなく、その後の環境変化に伴い、当初の目的が失われた公共事業は、原発も含めて、日本全国の至る所に見られる。決断を速くすれば、事態が早期に収拾できるわけでもない。むしろ、対立が延々と続き、出口さえ見えなくなってしまう。遅延評価の発想の方が実際には解決が速い。

     

     そうした経験にもかかわらず、日本政治において遅延評価の意義を世論が認められているは言い難い。停滞する政治を前に決断力を求められ、恣意的な即断に拍手喝采される。しかし、知恵が足りないために、調整ができず、動かないのが実情である。

     

     今の政治に必要なのは知恵だ。決断ではない。

    〈了〉

    参照文献

    福田収一、『自己発展経済のための工学』、養賢堂、2011


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    原発再稼働へのEQと状況知

    • 2012.04.09 Monday
    • 07:23
     

    フクシマと感情知

    Seibun satow

    Apr, 08. 2012

     

    「感情に沈黙を強制することはできましても、境界を定めることはできません」。

    ネッケル夫人『雑録集』

     

     201242日付『毎日新聞』は、同紙による全国世論調査で、政府が進めている大飯原発の再稼働について、賛成3%、反対62%という結果を公表している。興味深いのは、その男女比である。男性が賛成43%・反対55%であるのに対し、女性は賛成24%・反対69%と大きく差が開いている。

     

     なお、同調査は、331日・41日の2日間、RDS方式で実施されている。その際、福島第1原発事故で警戒区域などに指定されている市町村の電話番号は除外されている。有権者のいる1499世帯から905人の回答(回答率60)を得ている。

     

     今回に限らず、他のマスメディアを含む原発再稼働に関する世論調査でも、男性に比べて、女性の反対が高い。この結果の理由はさまざまに考えられるだろう。ただ、飲料水・食品中の放射性物質やホット・スポットなどフクシマ時代への対応に女性がアクティブであることは確かである。男性は、彼女たちと比べて、パッシブである。

     

     「行動(Action)」には「動機(Motivation)」が必要である。自分と言うよりも、将来世代への配慮が見られる。それを促すのは「感情(Emotion)」である。

     

     近年、感情は知性を構成する重要な要素と注目されている。ジョン・D・メイヤー(John D. Mayer)とピーター・サロベイ(Peter Salovey)は、1990年、感情を察知し、理解する能力は知性であるとして、「感情知性(Emotional Intelligence)」の考えを提唱する。感情知性は次の4点に特徴づけられる。

     

    感情を的確に把握する能力。

    志向を発展させるために感情を活用できる能力。

    感情の意味を理解できる能力。

    感情を自制できる能力。

     

     これを踏襲して、ダニエル・ゴールマン(Daniel Goleman)は、1995年、『EQ(Emotional Intelligence)』において、コミュニケーションでの感情の果たす役割が大きいことを指摘する。さらに、25の因子による感情知性の評価指標を提案している。それは、「知能指数(IQ: Intelligence Quotient)」に対して、「感情指数(EQ: Emotional Quotient)」である。彼はEQを次のように要約している。

     

     自分の本当の気持ちを自覚し尊重して、心から納得できる決断を下す能力。衝動を自制し、不安や怒りのようなストレスのもとになる感情を制御する能力。目標の追及に挫折したときでも楽観を捨てず、自分自身を励ます能力。他人の気持ちを感じとる共感能力。集団の中で調和を保ち、協力しあう社会的能力。

     

     これは、言わば、「社会的知性」である。感情知性は社会性の能力だ。

     

     フクシマが起きてから、政府や専門家たちの著しいEQの低さが明らかになっている。依然として欠如モデルで語っている無知蒙昧の専門家も少なくない。無知だから不安に感じているのであって、知識を与えてやればよい。こんな考えの彼らは信じられないほど社会性に乏しい。

     

     欠如モデルでフクシマを女性に説明する専門家は真に世間知らずだ。日本の女性消費者は世界で最もタフとして知られている。彼女たちは商品に対して不満を口にするだけではない。改善点を言語化=明示化する高い能力を持っている。これを生かさない手はないとして、消費者参加型の商品開発を始める企業も少なくない。

     

     中島秀人東京工業大学教授は、『科学技術社会論への道』において、現代の科学技術に対する市民の不安が「人間の根幹である生命活動や精神活動に関わるもの」だと指摘している。この「精神活動」は「脳神経」と言い換えてもよい。現代の科学技術は環境ではなく、情報処理技術が脳神経の拡張であるように、身体器官の一部と化している。放射線の影響は遺伝子の損傷であり、まさに「生命活動」に関わっている。女性の不安はここから生じている。ところが、欠如モデルの専門家はこうした科学技術の置かれている「状況」を理解していない。だから、両者のコミュニケーションがかみ合わない。女性たちは、社会で生きていくため、将来の危険性を心配しているのに、専門家は耳も傾けず、安全性を説明するばかりだ。

     

     福田収一首都大学東京名誉教授は、『感情工学─知恵の時代』において、感情による知を「状況知(Encultured Knowledge)」と呼んでいる。感情は状況に依拠する。状況の変化にはそれの持つコンテクストの更新が伴う。絶え間ない変化に対応するには、その都度、コンテクストを察知する必要がある。「感情知(Emotional Knowledge)」はコンテクストを洞察する能力である。未知の状況は新規のコンテクストの出現にほかならない。フクシマ時代はまさにそれそのものだろう。感情知の活用の時である。

     

     かつて原子力は「夢のエネルギー」と一般に説かれて日本に導入が図られてきたが、今回の再稼働問題に関して、政府は「夢」を一切口にしていない。彼らが列挙する理由は過去に提示された問題解決の継続にすぎない。そこにはフクシマの認識が抜け落ちている。政府がすべきなのはフクシマ時代における「夢」を語ることだろう。

     

     この「夢」とはコンテクストの更新であり、新たな問題設定である。問題解決であれば戦術対応で済む。けれども、問題設定には戦略が不可欠である。再稼働は将来への戦略が政府に稀薄であることの証だ。菅直人前首相は思いつきで政治をすると揶揄されたが、現首相はそれさえもない。たんなる既得権益の守護者である。何しろ、再稼働のためのやっつけ基準を決めるほどだ。省エネ・脱原発・再生可能エネルギーに基づくスマート社会構築、新しいコンテクスト共有へと向かう市民の熱い思いに水を差す有様だ。

     

     フクシマ時代はつねに未知の事態と直面することになる。それに備える認識が必須である。感情知のなせるところだ。この時代において、感情知の低い人物が政治家や官僚としているべきではない。

     

     再稼働?EQ低〜い!

    〈了〉

    参照文献

    中島秀人、『社会の中の科学』、放送大学教育振興会、2008

    福田収一、『自己発展経済のための工学』、養賢堂、2011

    ダニエル・ゴールマン、『EQ こころの知能指数』、土屋京子訳、講談社+α文庫、1998

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    3・11下の文学 社会認識と文学

    • 2012.02.29 Wednesday
    • 19:15

    社会認識と文学

    Seibun Satow

    Feb, 29. 2012

     

    「豊かな日本に育った世代が、気分よく暮らすことを、生活のメジャーにしている現象を描いている小説であった。けれども、残念ながら、そうした青春小説は、僕が留年するまで、現われてこなかった。『ならば、僕が、そうした小説を書いてみよう。感覚で行動する世代が登場していることを。何も、小説ってのは、ピカピカにみがかれて、ガラスの箱の中に入っている芸術品である必要は、ないのだから』」。

    田中康夫『著者ノート「なんとなく、クリスタル」を書いた頃』

     

     1979年、ハーバード大学教授エズラ・ヴォーゲルが『ジャパン・アズ・ナンバーワン』を刊行する。これは日本から学ぶべきところがあるというアメリカ社会への提言だったのだが、このタイトルが一人歩きを始め、80年代の日本を象徴するフレーズとして定着する。

     

     二度目のオイル・ショックを無難に切り抜けた日本経済は、80年代に入ると、不況にあえぐ諸外国を尻目に、ほぼ一人勝ちの状態を迎える。自動車やエレクトロニクス、家電を始めとして製造業が広い分野で強い国際競争力を保持する。80年代はまさに日本の時代だったと言ってよい。

     

     80年代は文学シーンも活気づいている。散文フィクションだけを見ても、1980年に田中康夫が『なんとなく、クリスタル』を発表したのを皮切りに、続々と革新的で挑戦的な作家が登場する。脱制度化・多様化・相対化を志向する彼らは「ポストモダン文学」と総称される。また、従前の文学者も意気軒昂で意欲的に作品を表わしている。そうした新旧世代間を始めとして文学論議が盛んに行われている。

     

     80年代が終わり、バブル経済が崩壊すると、日本経済は長期不況に陥る。製造業のさまざまな分野で次第に国際競争力を失っていく。80年代にあれほど激しく燃え上がった半導体分野の日米貿易摩擦だったが、92年には日本はアメリカに再び抜かれてしまう。誰ともなく、90年代を「失われた10年」と呼ぶようになる。

     

     こう考えると、80年代は天国、90年代は地獄と明瞭なコントラストによって印象づけられる。しばしば沸き起こる80年代への郷愁もここに由来する。けれども、実態を調べてみると、こうした実感が浅はかだということが明らかになる。

     

     確かに、80年代の日本の製造業は強い国際競争力を持っていたが、それらはキャッチアップ型で占められている。リバース・エンジニアリングの涙ぐましい努力は認めるが、欧米を中心に開発された技術を応用して、利益につなげる後発国の利点を生かしたものである。

     

     一方、90年代、日本の製造業が多くの分野で国際競争力を徐々に失いながらも、液晶パネルや大型テレビ、光ディスクなど日本発のオリジナル技術が市場に投入されている。明治以来のキャッチアップからフロント・ランナーへと脱却している。ただ、それと同時に、日本企業は、初めて、そのつらさを味わうことになる。

     

     日本企業はアーキテクチャ、すなわち設計の基本構造がインテグラル型、すなわちすり合せ型が強い。独自製品はそうした製造法から創造されたが、価格が高価で、一般に普及しない。アーキテクチャをモジュラー型、すなわち組み立て型にすると、多くの企業が参入できるため、競争によって価格が下がる。アーキテクチャのモジュラー化を進める必要がある。促進すると、安い人件費を武器に新興国企業が加わり、新技術は一般に普及し始める。けれども、せっかく技術革新の努力をしたのに、当の日本企業にとっては得られる利益が目減りしてしまう。

     

     新興国の追い上げにより、電機大手は、90年代以降、国際競争力を低落させる。実は、完成品がモジュラー型だとしても、階層構造を下げると、部品や材料、その製造機械がインテグラル型が多数含まれている。ハード・ディスクを読み取るリーダーがその一例である。完成品を販売する大手は厳しくても、下のレイヤーを担当する中小企業は依然として国際競争力を維持している。韓国製品が世界市場で売れるほど、対日貿易の赤字が膨らむ現象はこうした状況に起因する。

     

     現在も、事実上、90年代の延長線上にある。新興国のような成長は望めないが、日本独自のオリジナル技術が世界を席巻する可能性は高い。

     

     さて、その90年代に出版業も、製造業同様、不況に陥っている。しかし、製造業と違い、日本発のオリジナル文学が登場した様子はない。

     

     明治以降、日本の文学者は西洋から近代思想・文学を輸入し、実情に合わせて、変更している。中でも、近代社会を描くために生まれた近代小説の導入には苦心している。日本近代文学の歴史は、製造業と同じように、キャッチアップが中心だったと言ってよい。80年代の文学にもポスト構造主義が大きな影響を与えている。90年代に入ると、思想の輸入が滞る。ここからオリジナル文学が誕生すると思いきや、まったく惨憺たる状況である。

     

     期待の新人も現われ、話題作も生まれている。また、村上春樹を始め多くの作品が外国語に翻訳され、海外でも広く知られるようになっている。しかし、それだけのことである。新たな方法論を携えた作家が登場し、それを諸外国の文学者が模倣したり、とり入れたりした形跡は見当たらない。90年代の文学の模様を眺めると、ただ作品が点在しているといった印象である。従来の文学上の日本語を相対化する非ネイティブ・スピーカーによる創作を除くと、これといった課題さえ日本文学には現われていない。

     

     言葉の壁のせいではない。もし独創的な方法論を持った作品があれば、翻訳を待つまでもなく、それを諸外国の文学者が援用するだろう。方法論は異言語間でも共有可能である。エンジニアリングと同じだ。逆に言うと、いくら翻訳数が増えても、それを備えていなければ、作品は模倣されない。

     

     明らかに参考の対象となったのは、90年代の作品ではなく、田中康夫の『なんとなく。クリスタル』である。日本滞在経験のあるダグラス・クープランドは、1991年、小説『ジェネレーションX』を発表する。この作品の構成は見開きの一方のページに本文、もう一方に註という『なんとなく、クリスタル』とそっくりである。おまけに、末尾の人口動態に関する統計の添付まで同じである。ほとんどリメークだ。『なんとなく、クリスタル』からの強い影響を認めるクープランドは、この小説のあとがきで、「ジェネレーションX」をアメリカ版「新人類」だと告げている。なお、この「ジェネレーションX」は80年代に公民権を獲得した世代を指す名称として米国で定着している。バラク・オバマは初のジェネレーションXの大統領である。

     

     『なんとなく、クリスタル』は非常に明確な方法論を有している。青春小説の形式を採用する。主に大学生を主人公とする青春小説は日本近代文学の伝統的なジャンルの一つである。時代の鑑とさえ見なされる。田中康夫は、その由緒正しいフォーマットを使いつつ、新たな修辞法で作品を構築する。こうすると、そのジャンルの前提としてきた社会的風景が変容したことが明確になる。

     

     田中康夫の描く主人公の女子大生は消費者である。それまでの青春小説の主人公は、たいてい、悩みを抱えた学歴エリートである。若者は、中には、富豪の子息もいたが、それは非常に少数で、貧乏と相場が決まっている。しかし、80年代に日本は豊かな社会に入り、若者が近代日本史上初めて先進的な消費者として台頭する。

     

     作品の舞台の「1980年東京」、すなわち現代は消費社会である。すべては消費の対象という点で「等価」である。商品であるなら、それらはカタログに掲載することができる。そこでは、商品に関する説明やコメントも必要だ。しかし、この消費社会は現在の人口動態によって支えられている。今後、少子高齢化が急速に進むと予想され、社会は新マルサス主義に応じて変容せざるを得ない。このような社会認識があの作品の重層的な方法論を導き出している。

     

     『なんとなく、クリスタル』の新しさの一つは、人口動態に言及しているように、現在が過去のみならず、未来にも規定されていることを明確化した点である。未来の人口は現在に依存する。将来の状況を織りこみ、逆算して今を考えなければならない。今日、さまざまな将来予測を前提に、政治・経済・社会の各領域で活動が営まれている。けれども、1980年当時、マルサスのロジスティック・モデル、すなわちy’=kyを念頭に置いた文学作品は他になかったし、世間も概して将来に楽観的である。

     

     実は、近過去を舞台にした場合、この未来からの制約を無視できる。1984年にしろ、昭和63年にしろ、それは現在から顧みられる。未来が現在を規定する方法を使わなくてすむ。もし近過去をめぐる小説を見かけたら、『なんとなく、クリスタル』が切り開いた新たな文学的地平からの後退だと思ってまず間違いない。

     

     なぜ文学は90年代に製造業のような脱皮を遂げられなかったのかという疑問がわく。それはおそらく社会認識についての姿勢の違いにあるように思われる。

     

     日本の製造業は、80年代から90年代へと至る間に、認識の転換を経験している。キャッチアップであれば、目標がはっきりしている。一方、フロント・ランナーは世界の情勢について認識しなければならない。市場動向や世界の産業編成、国際競争力などに常に気を配り、そうした地図上の自分の位置を確認しておく必要がある。

     

     『なんとなく、クリスタル』以降、社会認識に基づく方法論を明確に示した作品はあまり見当たらない。なんでもありのポストモダン状況を経て、90年代、文学者は何をしていいのかがわからなくなってしまう。アイロニカルな恣意が溢れ、作品はその場限りの座興として次から次へと現われては消えていく。作者は、他者から見れば矛盾しているように思えても、自分の中では一貫性があると主張する。しかし、それは不安によって失いがちになる心のバランスを保とうとする自己防衛策である。そうして自意識は社会に対して優位さを確保する。東西冷戦の終結、バブル経済の崩壊と平成不況、各種のグローバル化の進展により社会はめまぐるしく変化している。不確実で曖昧な雰囲気が不安を助長する。

     

     方法論で重要なのはどう描く以前に、いかに社会を認識するかである。現代社会についての定義が決まれば、その問題解決の選択肢も決定できる。現代社会は複雑であり、実態と実感がずれていることは往々にある。実態と実感を弁証法的に検討していくことで、社会への認識が深まる。現代社会像をさまざまな理論が提起している。それは大いに参考になる。ただ、自らの恣意を正当化するためのつまみ食いとして利用するだけでは十分ではない。社会に関して何を理解しているだろうかと自問し、何をわからないのかと疑問に思い、その上で自分と比較しつつ他者の意見や見方を論じて批判する。

     

     こうした作業をしないと、社会をどのように捉えていいのかわからないから、書くべき内容が定まらない、あるいは何を書いていいのか思い浮かばないことになる。社会に対する不安があるので、それを埋めるように書き始める。中身は二の次にされる。

     

     90年代を経て21世紀を迎えても、文学シーンは方法論において特に変化はない。2000年代の後半に入って、素朴に受容された新自由主義への反発の他に、80年代への懐かしさが強まっている。

     

     80年代への無邪気な郷愁がそれを経験した文学者の間に生まれ、遅れてきたポストモダン文学者の登場を待ち望む。そんな空気を察した作家が現われと、彼らは気恥ずかしさも覚えず、拍手喝采で歓迎する。手段であったはずのポストモダン的手法が自己目的化していても気に留めない。小説に多くの註が付記されたとして、『なんとなく、クリスタル』と違い、それは社会認識の表象でもない。80年代は東西冷戦と右肩上がりの経済成長という強固な基盤に立脚している。そうした現実に依存して何でもありと思っていたにすぎない。80年代の意義を踏まえて、その限界と課題を乗り越える新たな展開が必要だというのに、文学にはそんな自己陶冶など微塵もない。

     

     一例を挙げよう。ポストモダン文学以来、「横断」や「越境」が肯定的な概念として文学者の間で使われている。70年代、アカデミズムの各分野において、独立した体系の行き詰まりが目立ち始め、学際的研究が本格化する。横断や越境はこうした状況が求めた手段であって、目的ではない。それ自体に特別の価値があるわけではない。その一方で、各分野で専門家・細部化・高度化も進む。学際化が進展するほど、他領域に関する知識も必要となるが、その学習はきりがない。また、特定分野の成果を一般化するには、アイデンティティを維持しつつも、汎用性が必須だが、次々に登場する用語・方法の標準化の課題もある。今日のアカデミズムでは、学際化=横断・越境は常態化していて、むしろ、協同の困難さの克服に主眼が移っている。依然として「横断」や「越境」とほめそやしている文学者がこうした現実と向き合っているととても言えない。

     

     311に直面した際、人々が思い出した散文は吉村昭の『三陸海岸大津波』である。40年以上前に書かれ、半ば忘れられていた作品が読み返される。一方で、90年代以降の作品は、漠然とした空気に向けられたものであり、とてつもない破壊など想定していない。そこに見られる自意識の優位は心理的操作によって得られたにすぎない。311を経験している社会において、何でもありや近過去を素朴に扱う文学はお呼びでない。

     

     2011311日以来、日本社会では過去と現在と未来が錯綜している。現在は過去に規定され、未来によって縛られている。また、過去を清算しなければ、未来を描けないし、それが決まらなければ、現在が動けない。制御と予測の入り組んだ弁証法が現在を支配する。抽象的な話ではない。いつ終わるとも知れぬフクシマの惨状がこれを端的に示している。

     

     今、無数のシナリオが提案され、多くの可能社会が用意されている。しかし、それらは一つまた一つとさまざまな理由によって淘汰されていく。一つが落ちれば、それに続く選択肢も外される。けれども、ただ消え去るわけではない。それらは記録や記憶の中に生き残る。ある社会像が現実として選ばれるが、あくまで暫定的である。何らかの事情によって記録や記憶の中の別の社会が復活してくるだろう。

     

     311下の文学は、おそらく、こうした社会認識とそれが必要とする方法論を体現したものである。311は、日本のみならず、近代世界が経験した初めての事態の一つである。それを捉えるには、輸入品を待ったり、既製品を当てはめたりしていては不十分である。311に当事者意識を持って臨むならば、日本発のオリジナル文学が生まれざるを得ない。少なくとも、それが今生きている文学の責務である。

    〈了〉

    参照文献

    田中康夫、『なんとなく、クリスタル』、河出文庫、1983

    ダグラス・クープランド、『ジェネレーションX―加速された文化のための物語たち』、黒丸尚訳、角川文庫、1995


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