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    軽薄短小明

    • 2012.04.22 Sunday
    • 15:09
     

    軽薄短小明

    Seibun Satow

    Apr, 21. 2012

     

    「文体は思想の衣」。

    セネカ『ルキリウスへの手紙』

     

     「軽薄短小明」──これが日本語とネットに合ったコラムの文章傾向です。軽い文体、薄い内容、短い文、小さい文章量、明らかな意味ということです。

     

     日本語とネットの組み合わせには固有な特性があります。それが軽薄短小明の傾向をもたらすのです。もちろん、これは不特定多数を読者想定しているものに限ります。

     

     そうしたネット・コラムは事実型・意見型・心情型の三つに大別できます。

     

     事実型は、事件や出来事の事実関係を読者に明確に伝えるものです。意見型は、自分の考えを読者に納得してもらうように説明するものです。心情型は、自分の心情をその動きによって読者に共感してもらうものです。紀行文がその一例です。

     

     いずれのタイプにも共通する三つの特徴があることでしょう。

     

     1 明示的表現

     2 重点先行の文章構成

     3 話し言葉志向

     

     日本語のネットに適合すると、コラムはこの特徴を持ちます。なぜそうなるのか考えてみましょう。

     

    1 明示的表現

     ウェブ・コラムでは、何について書かれているかが語句として表われています。暗に示す手法は避けられます。

     

     ホームページは、検索サービスを経由して、閲覧されることが多いものです。検索結果に載らなければ、読まれにくくなります。そのため、検索エンジンにヒットしやすいように工夫する必要があるのです。

     

     人間は行間を読むことができます。暗に示されている言い回しでも、理解可能です。認知心理学者の市川伸一東京大学教授は、次のような暗示的な文章を紹介しています。

     

     部屋に入ると,低めのテーブルの上にメニューがあった。本が二冊おいてあった。壁には電話がかかっていた。きょうの人数は六人である。全員が席についた。一人の男性が本を配った。受け取った二人の男性は,中を見ずにとなりの人に渡した。もう一人の女性は,さっそく熱心に読み始めた。メニューを手にとった男性は一目見て,となりの女性に渡した。

     

     それと明示していなくても、わかる人には明瞭です。けれども、今のコンピュータにはできません。書かれていないことは検索不能なのです。検索エンジンに対応するため、ネット・コラムでは直截的な表現が使われます。ちなみに、市川教授の例文はカラオケ・ボックスの状況説明です。

     

     明らかな意味という文章傾向はこうした理由から生じるのです。

     

    2 重点先行の文章構成

     ブログを始めとするネット上のコラムは冒頭に主旨や概略が記されます。パソコンや携帯端末で閲覧されるからです。その画面に一度に表示できる字数は限られています。スクロールをしなくても、大筋が理解できるようにする必要があるのです。

     

     内容についての重点が先行配置され、詳細はその後に続きます。新聞はこうした文章構成をとっています。それは「逆三角形型」と呼ばれます。

     

     字数制限がありますから、一文一文を短くする必要があります。簡潔な文を書こうとすると、2040文字が目安になります。

     

     意見を主張する文を例にしましょう。最もシンプルな文の構造は次のようになります。

     

     ABである。

     

     日本語では、24文字の単語が多くを占めます。かりにどちらも2文字としても、この文の字数は9に及びます。最も簡素な断定口調の文でさえ10文字弱です。長い単語を使ったり、修飾語句を加えたりすると、40文字くらい簡単に届きます。「社会保障と税の一体改革」に至っては、11文字です。

     

     なるべく修飾語句は使わないで、単純な表現を心がける必要があります。複数の文を組み合わせて構成する複文や重文では40文字を超えてしまいます。単純な表現でも、効果的に積み重ねれば、複雑な内容も表わせます。確かに、回りくどくなるかもしれません。でも、複雑な構造の文よりも確実にメッセージを伝えられるのです。

     

     ただ、文が長けれぼ、わかりにくくなるわけではありません。明治の中頃、尾崎紅葉率いる硯友社の文学が一世を風靡しています。知識人だけでなく、無学の庶民にも人気があったと伝えられています。でも、その文体はとても息が長いのです。尾崎紅葉の『金色夜叉』の書き出しを引用してみましょう。

     

     未だ宵ながら松立てる門は一様に鎖籠めて、真直に長く東より西に横たはれる大道は掃きたるやうに物の影を留めず、いと寂くも往来の絶えたるに、例ならず繁き車輪の輾は、或は忙かりし、或は飲過ぎし年賀の帰来なるべく、疎に寄する獅子太鼓の遠響は、はや今日に尽きぬる三箇日を惜むが如く、その哀切さに小さき膓は断れぬべし。

     

     これで一文です。硯友社の文学はこういう長い文が連なっているのです。

     

     ですから、文が長いとわかりにくくなるわけでもありません。けれども、画面の都合があります。文を短くするように心がける方がネットには合っているのです。

     

     文を小分けし、それぞれの役割を考えて、文章を組み立てることが必要になります。先に作者の視点を提示して、それに沿って展開していくのです。事実型・意見型・心情型では主文の役割が事実・意見・心情と違います。でも、主文の後にそれを補強する文が置かれます。文章の構成は同じなのです。

     

     読者もすでに示されている枠組みから読み進めていきます。作者の限定に従って読むのですから、納得しやすくなるのです。

     

     この構成では、前置きが省かれます。そうすると、作者と読者との意識の共有のきっかけがなくなってしまいます。共有しやすいように、話題が三種類に大別されることになります。

     

     一つは時事問題です。同時代を生きている読者にあれこれ説明は要りません。次に、大勢の人が高い関心を示す話題です。映画に関する意見は見る際に参考になるものです。最後に、見知らぬ人でも話しかけやすい話題です。庭をきれいに手入れしている顔見知りでない人に声をかけても違和感はありません。日常のたわいもない話などもこれに含まれます。

     

     社会的に広く共有された認識を利用するのです。それでは、埋もれたことの発掘は難しくなります。こうした制約により、内容は薄くならざるをえません。けれども、それは決してマイナスの価値ではありません。社会とのつながりを心の片隅に置いているからです。

     

     また、読者の負担を考慮すると、分量を小さくする必要があります。電子書籍リーダーは別ですが、画面で文字を追うのは目が疲れます。短時間で読める方がありがたいのです。

     

     薄い内容や短い文、小さい文章量はこのような理由から生まれるのです。確かに、冒頭に突拍子もないことを提示し、驚かせて読ませる手法もあります。しかし、最初はともかく、次第に飽きられるものです。ウェーバー=フェヒナーの法則です。驚きのインフレに走り、手段と目的が入れ替わってしまいます。賢明な作者は控えるでしょう。

     

    3 話し言葉志向

     ネット・コラムでは話し言葉が志向されます。ネット上の文章は検索サービスを通じて閲覧されます。誰がどういう目的でいつ目にするかはわかりません。そこで、作者は読者が自分と文脈を共有できるように用意しておく必要があります。そのため、話し言葉志向がとられるのです。

     

     書き言葉では、コンテクストを共有しない者同士の理解が想定されます。公文書の書式はそうした工夫の一例です。文脈の代わりに形式を共有するわけです。

     

     一方、話し言葉は、具体的なコンテクストに依存します。反面、形式にあまりとらわれません。話し言葉志向は、文脈を共有して理解し合おうとする書き言葉のことです。

     

     コンテクストは、送信側が受信側に配慮・共感・譲歩をした上で、用意します。ですから、やわらかい印象を与えることが必要となります。

     

     「です・ます」調の敬体がわりに用いられるのは、そのためです。ネット・ユーザーには自分の信念を強く持つ人もいます。また、おっちょこちょいの人もいます。さらに、何事もくさしたり、茶化したりする道化者もいます。敬体は自己防衛にもなるのです。

     

     内容にもよりますが、同じ理由から、用語や用字も話し言葉志向です。

     

     用語の例を挙げましょう。

     

     本を買った。

     書籍を購入した。

     

     どちらも意味は同じです。でも、印象は違います。前者は日常生活を思い起こさせます。他方、後者は使途を所属組織に書面で報告するような印象があります。話し言葉志向ですから、前者の文が好まれます。

     

     漢字とひらがな、カタカナの用字や送り仮名なども話し言葉志向です。

     

     話し言葉志向と言っても、幅があります。コラムによって用語や用字にも傾向の違いが見られるのです。その方向性は大きく二つあります。

     

     一つは親しみやすさです。明るく、くだけた文体が用いられます。よりは話し言葉志向です。話し言葉のニュアンスを出すため、顔文字や絵文字がしばしば使われます。また、改行も頻繁です。それにより作者が一方的に話している気がしません。気さくな印象のため、読者には本音を言っている感じがします。

     

     もう一つは礼儀正しさです。こちらは丁寧な文体が使われます。読者には慎重な印象が伝わります。親しみやすい文体よりも、比較的、幅広い年齢層でやりとりが可能です。社会的属性が選ばせる文体とも言えます。

     

     このような事情から軽い文体がネット・コラムでは主流になります。重点先行の文章構成は新聞と似ていますが、文体は違うのです。

     

     ただ、話し言葉に近いために、推敲が甘くなりがちです。電子媒体は修正が簡単です。なのに、ついつい見直しを怠ってしまいます。変換ミスを始め誤字脱字はウェブ・コラムにつきものです。

     

     以上が日本語とネットに合ったコラムの三つの特徴です。もちろん、オンライン・コラムがすべてそうではありません。実際、佐藤清文という文芸批評家のコラムは「軽薄短小明」を無視しています。もっとも、そのせいか、人気もありません。

     

     三つの特徴を意識しなければ、自然に軽薄短小明になるものではないのです。それを踏まえて効果的に書くと、その傾向に向かうということです。目にするコラムがわかりやすいかどうかの理由も、これを参考に気づくことでしょう。

     

     ただ、電子書籍端末が普及すれば、傾向もまた変わるかもしれません。文章論から考えると、ネット上の文章にも改めて見えてくるものがあるのです。

    〈了〉

    参照文献

    市川伸一、『考えることの科学 推論の認知心理学への招待』、中公新書、1997

    杉浦克巳、『日本語表現法』、放送大学教育振興会、2007

    青空文庫

    http://www.aozora.gr.jp/


     

    わかりやすい文章 修飾語とModifier

    • 2012.03.20 Tuesday
    • 23:14
     

    修飾語とModifier

    Seibun Satow

    Mar, 20. 2012

     

    「美しい日本の私」。

    川端康成

     

    1章 文字言語のわかりやすさ

     インターネットの普及に伴い、公私共に、文章を書く機会が一般的に増えている。SNSやブログ、電子メール、パワーポイントなどで多くの人々が日常的に文章を読み書きする。こうした状況下、わかりやすい文章の書き方への要求が高まっている。

     

     今を時めく池上彰は、『ニュースの読み方使い方』において、NHK記者の経験を踏まえ、わかりやすくするには、短い文を書くように心がけること推奨している。一息で読める程度の長さの文がわかりやすい。そういった文を論理的に積み重ねていけば、誤解の少ない文章が出来上る。

     

     一方、かつて本多勝一は、『日本語の作文技術』において、文が短ければわかりやすくなるというのは迷信だと次のように述べている。

     

     文は長ければわかりにくく、短ければわかりやすいという迷信がよくあるが、わかりやすさと長短とは本質的には関係がない。問題は書き手が日本語に通じているかどうかであって、長い文はその実力の差が現れやすいために、自信のない人は短い方が無難というだけのことであろう。

     

     文の長短がわかりやすさを決めるのではない。書き手が日本語を理解していれば、長くてもわかりやすい文を作成できる。

     

     本多勝一は元朝日新聞記者である。池上彰との意見の違いは、お互いの経歴と無縁ではない。池上彰が電波媒体で音声によってニュースを伝える目的からわかりやすさを考えている。一方、本多勝一は活字媒体上での文字による情報伝達を念頭に置いている。

     

     同じ内容であっても、音声言語と文字言語では用語や構成などの点で異なる。音声言語の方法をそのまま文字言語に応用することはできない。文字言語は、音声言語と比べて、複雑な文章構成が可能である。その特性を生かしたわかりやすさが考察される必要がある。本多勝一は文字言語におけるわかりやすさを追求している。特に、彼が取り上げるのは修飾語の問題である。修飾語と被修飾語の間におけるわかりやすい順序を四つの原則として示している。

     

     第一の原則が「節を先に、句を後に」である。本多勝一は橋本文法、いわゆる学校文法に則り、節を一つ以上の述語を含む複文、句を述語を含まない文節と定義している。

     

     白い紙

     横線の引かれた紙

     厚手の紙

     

     この三つを合成する場合、「横線の引かれた」は節であるから先に、「白い」や「厚手の」は句であるのでその後に置く。「横線の引かれた白い厚手の紙」もしくは「横線の引かれた厚手の白い紙」とすると、他の配列と比べて誤解が少ない。

     

     第二の原則が「長い修飾語を前に、短い修飾語は後に」である。これは第一原則の拡張と考えられる。

     

     ABCに紹介した。

     

     この文を原型に、「私がふるえるほど大嫌いなB」と「私の親友のC」という修飾語をつけた文に変換する場合、最もわかりやすい配列は次の通りである。

     

     私がふるえるほど大嫌いなBを私の親友のCAが紹介した。

     

     長い修飾語から順序よく配置した文は、意味を読み取る際に、混乱を招きにくい。

     

     第三の原則が「大条件から小条件へ、重大なものから重大でないものへ」である。

     

     太郎さんが

     薬指に

     ナイフで

     けがをした。

     

     この四つを合成する場合、「太郎さんがけがをした」が最も重大であり、次に「ナイフで」、『最後に「小指に」という優先順位がある。そのため、「太郎さんがナイフで薬指にけがをした」が相対的にわかりやすい。

     

     第四の原則が「親和度の強弱による配置転換」である。言葉にはそれぞれ連想される親和度がある。例えば、「若葉」は「みどり」や「もえる」と連想性が高いが、「照り映える」とは低い。こうした場合は特に問題はない。しかし、文中の複数の単語がある修飾語に対してほぼ同等の親和度があるとき、配置の工夫が必要になる。

     

     初夏のみどりがもえる夕日に照り映える。

     

     ひらがなの「もえる」は「みどり」にも「夕日」にも親和度がある。これではどちらにかかるのか混乱する。「夕日」を修飾するのであれば、次のように配置転換するとわかりやすい。

     

     もえる夕日に初夏のみどりが照り映える。

     

     親和度の高い単語が文中に複数含まれる場合には、誤解されない順序に変えることが必要となる。

     

     この説明は、本多勝一の新聞記者としての経験が色濃く反映し、非常に興味深い。実際の場面での用法はその通りだろう。ただ、必ずしも理論的ではない。しかも、日本語における語順のゆるやかさと修飾語句の優先順位の問題が入り混じって論じられている。第一と第二の原則は、確かに、修飾語句の積み重ねに焦点があてられているが、第三と第四三は、どちらかと言えば、語順に重心がある。

     

     修飾語句の優先順位の前に、語順について論じてみよう。

     

     日本語は、英語や中国語と比べて、語順がゆるやかである。助詞や活用語尾によって文法上の意味関係を明示できるので、語順を変えると、意味が変わったり、通らなくなったりすることはあまりない。ただし、力点のある語をニュアンスとして表現する場合、文頭に持ってくる傾向がある。その文においてどの語に力点があるのかはコンテクストによって規定される。第三原則の例文では、「太郎さんがけがをした」が重大だとされている。しかし、前後の文脈がないので、本当にそうなのか判断できない。

     

     文脈の要請する配置にすると、わかりにくくなることもある。こうした時に役割を果たすのが読点である。読点には対象領域を絞りこむ機能がある。

     

     赤いスイートピーとバルコニーが見えた。

     

     これでは「赤い」のが前者だけなのか、それとも両者共なのかが判定しにくい。こういう時に、読点が役立つ。

     

     赤いスイートピーと、バルコニーが見えた。

     赤い、スイートピーとバルコニーが見えた。

     

     第一の文においては「赤い」のが「スイートピー」だけ、第二ではどちらもそうだということが明瞭である。

     

     第三原則の例文も、文脈上で強調する語を文頭に置き、その直後に読点をうてば、決してわかりにくくない。

     

     ナイフで、太郎さんが薬指にけがをした。

     薬指に、太郎さんがナイフでけがをした。

     

     読点によって、力点が置かれる語が規定されているので、こめられたメッセージは明瞭である。

     

     こう考えると、第四原則の例文も読点を使えば、実は、混乱が生じないことがわかる。

     

     初夏のみどりが、もえる夕日に照り映える。

     

     句読点の使い方を「句読法」と呼ぶ。句点の用法にゆれはないだろう。一方、読点の方は明確ではない。一応の目安となるのが、旧文部省が19463月に編纂した「くぎり符号の使ひ方」である。これは、各種の教科書や文書などの表記法を統一するための基準を示した四篇の冊子の一つである。現在でも公文書や学校教育等で参考にされている。ただし、文脈の考えは考慮されていない。この読点は、その中の「語なり、意味なりが附著して、読み誤る恐れがある場合にうつ」に当たる。

     

     本多勝一も、修飾語を論じた後、読点に言及し、その原則を二つ挙げている。「長い修飾語二つ以上あるとき、その境界にテンをうつ」。「原則的語順が逆順の場合にテンをうつ」。さらに、例外として、「筆者の自由な思想としてのテン」があると捕捉している。これらは修飾語の四つの原則を補完している。しかし、経験則、すなわちオラリティの印象をぬぐいきれない。そこに「テンをうつ」理由がわかりやすくなるからにとどまっている。

     

     読点には対象領域を限定する機能があるとすれば、うつ根拠は明確である。その語順によって語や意味が付着して読み取りに支障をきたす場合、それらを絞りこむために、読点をうつ。これにより第三・第四原則は語順と読点の問題として理論的に整理・理解できる。

     

     一般的に読点の機能は「くぎり」と見なされている。確かに、そういった面もあるけれども、それだけでは先の「赤いスイートピーとバルコニー」の例を説明できない。読点にはいくつかの機能があり、文字言語特有の符号である。これを効果的に用いることで、文章がわかりやすくなる。

     

     しかし、第一・第二原則の修飾語句の優先順位は読点の用法によって説明できない。日本語における修飾語が何であるのかを知らなければ、それを理論化することは困難である。こうした時には、論理的相対化、すなわち日本語を他の言語と比べることが有効である。日本語の修飾語の問題を英語と比較して検討してみよう。

     

    2章 絞りこみと飾りつけ

     「修飾語」に当たる英単語は”Modifier”である。これと同じ語源の”modification”には「限定」の意味がある。「修飾」は、むしろ、”decoration”であろう。「修飾語」よりも「限定語」の方が英語のニュアンスを伝える。日本語の修飾語の定義は、ある語句が別の語の意味を飾りつけることである。一方、英語のそれはある語が別の語の意味を絞りこむしことである。

     

     この文法用語をめぐる日英の違いは冠詞の有無から説明できる。日本語では裸のまま普通名詞を使えるが、英語においてはそうはいかない。

     

     時計を集めていた。

     時計を拾った。

     時計を落とした。

     

     I collected watches.

     I have picked up a watch.

     I have dropped my watch.

     

     日本語ではいずれも「時計」とプレーンの普通名詞ですんでいる。一方、冠詞もしくは所有格といった決定詞をつけるか、複数形にしないと、英語においては普通名詞を使うことができない。裸の普通名詞は事典や辞書の見出しなどに用いられるだけで、具体的な個物ではなく、抽象的な概念、すなわちイデアを表わしている。

     

     英語では、実際に普通名詞を使う場合には、具体的な個物に合わせて概念を限定する必要がある。この考えが修飾語にも拡張される。修飾語句は、概念を飾るのではなく、絞りこむためにつけられる。例えば、”a black wallet”では、”wallet”の集合の中から”black”なものの任意の一つを限定したのであって、そうではないものは淘汰されている。文法書では、こうした形容の働きを「限定用法」と記されている。

     

     他方、日本語はプレーンの普通名詞で抽象的な概念と共に具体的な個物を指し示すことができる。修飾語は、そのため、特に飾る必要があるときに、付け加えられる。例えば、「黒い財布」では、それが持つ特徴の中から「黒い」をピックアップして飾ることで、他と差異化する。

     

     英語では、名詞が形容詞的に用いられる場合がある。その際、修飾する方の名刺は単数形に限られる。ここで必要とされているのが概念であって、個物ではないからだ。ただ、名詞の形容詞的用法は、新たな一つの名詞の創造とも考えられる。名詞に修飾機能があるとは必ずしも言えない。

     

     名詞の形容詞的用法に関してこんなエピソードが伝えられている。1989年、福岡ドームを中核とする複合商業施設の名称が「ホークスタウン」となることを知った佐藤清文という東京在住の大学生がダイエーに手紙を書いている。主旨は次の通りである。英語の名詞の形容詞的用法では、"Yankee Stadium”のように、単数形を用いなければならないので、「ホークタウン」が適切である。海外からお客様を招くのに、おかしな英語を使うことは貴社のイメージにとってあまりよくない。しばらくして、「ホークスタウン」のパンフレットが彼の元に送付される。2004年にダイエーが事実上倒産したニュースに接した際、人の話に耳を傾けない企業の末路はこうなるのだと確信している。なお、現在でも「ホークスタウン」の名称がつかわれている。

     

     主語や述語動詞、補語、目的語の四つを「文の主要素」と呼ぶ。言うまでもなく、これらのみで構成されている文だけではない。主要素の意味を限定して詳しく説明したり、捕捉説明したりする附属的な語句が「修飾語」である。文中で名詞を修飾する役割が形容詞、それ以外にその機能を果たすのが副詞である。形容詞は英語で”adjective”と言い、「名詞に付加される語」に由来する。名詞の他、代名詞も修飾する。冠詞も形容詞の一種である。また、副詞は”adverb”で、語源は「動詞に付加される語」である。動詞だけでなく、形容詞や他の福祉、名刺、代名詞、句、節、文全体を修飾する。

     

     英語で動詞は修飾語として用いられない。他方、日本語では動詞を修飾語として使うことができる。「ゆれるまなざし」がその一例だ。日本語の修飾が飾りつけで、限定ではないことの表われである。

     

     英語では、名詞の前に積み重ねられた形容詞の優先順位は、限定の階層構造に基づいている。この決まりは厳しい。と言うのも、修飾語の順序によって意味が変わることがあり、わかりにくいという問題にとどまらないからだ。

     

     青い

     ビニールの

     バッグ

     

     この三つを合成する場合、日本語においては「青いビニールのバッグ」でも「ビニールの青いバッグ」でもかまわない。「青い」と「ビニールの」の間に飾りつけの優先順位はない。

     

     一方、英語ではそんな曖昧さはない。

     

     blue

     plastic

     a bag

     

     この三つを合成する場合、”a blue plastic bag”の語順でなければならない。”plastic”は素材、”blue”は色というバッグの属性を示している。属性は階層構造を有している。素材は色よりもバッグにとって変更しにくい特徴である。そのため、素材が色よりも優先して名詞を修飾する。

     

     日本語では前置修飾のみだが、英語において、”something new”のように、名詞の後に形容詞が配置される表現もある。名詞の前後に複数の形容詞が置かれている場合、後の語が最後に修飾する。後置修飾語は前置よりも階層が表層に位置している。

     

     後置修飾を考える際に、主要なトピックとなるのが句と節である。主語と動詞は含まないものの、複数の語が集まって文中で品詞の機能を果たすのを「句」と呼ぶ。修飾の積み重ねによって語がまとまって句を形成する。この句形成も修飾の重要な機能である。それによって複数の単語の集合体が一つの形容詞もしくは副詞として扱える。それぞれ「形容詞句」、「副詞句」と言う。また、主語と述語動詞を備えた語群が文の一部をなしているのが「節」である。句だけでなく、節も修飾の役割を果たす場合がある。節は動詞を修飾語句に用いるための一つの方法である。形容詞の働きをするのが「形容詞節」、副詞が「副詞節」と名づけられている。

     

     句の基本構造は前置詞+名詞である。前置詞の働きは句形成だとも言える。この名詞の位置に節が来る場合もある。連続的に配置する際、そのため、句が節の前である。節は句よりも被修飾語の絞りこみが広い。名詞・形容詞・副詞を修飾する際には、句や節はその直後に必ず配置される。ただし、被修飾語が動詞の時はその限りではない。動詞を修飾する副詞は、文中、比較的自由に位置取りができる。動詞は英語で”verb”と言い、語源は「語の中の語」である。動詞の強い磁場により、それを修飾する際の副詞はどこにいようとその関係が明白である。

     

     前置修飾の形容詞・副詞に比べて、後置修飾される句・節は被修飾語の核心から遠い。修飾語句は、前後のいずれにあっても、被修飾語から離れるほど、限定が広くなる。これは住所を記す際の決まりごとを思い起こせば納得できるだろう。

     

     Sherlock Holmes lives at 221b Baker Street in London.

     

     前置修飾と後置修飾はどちらも被修飾語を限定する。ただし、前者の方が後者よりも核心に近い。

     

     The taller man in black is Will Smith.

     

     ウィル・スミスは黒服のうちの背の高い方の男と言っているのだから、後置よりも前置修飾語が絞りこみの強さがある。後置修飾語句がなくても文として成り立つが、前置では、それがないと、文法上おかしなものになってしまうことも少なくない。この例文でも、”in black”がなくても文法上のミスはない。他方、定冠詞がなければ、意味が通らない。

     

     このように、英語の修飾語句の優先順位は絞りこみの規則に従っている。英文を和訳する際、日本語としての自然さが必要であるから、そのルールも明瞭になるだろう。

     

     日本語の修飾は飾りつけである。先に配置される修飾語は被修飾語から遠い飾りのものになる。コート、ジャケット、シャツ、下着の順に身体に近づく。しかし、タイピンとカフスボタンの距離感ははっきりしない。ここが英語の絞りこみと違う点だ。英文和訳の際に、前置修飾の順番はどちらの言語も同じと考えられる。問題なのは日本語にない後置修飾の扱いだ。後置修飾では、後に行くほど被修飾語の核心から遠くなる。外側の飾りになっていくと見なすことができる。後置修飾は後から優先して訳すのが日本語の修飾の規則と適合する。

     

     “ Sherlock Holmes lives at 221b Baker Street in London”は次のように和訳できる。

     

     シャーロック・ホームズはロンドンのベーカー街221bに住んでいる。

     

     「ロンドンのベーカー街221bに」は「住んでいる」という動詞を修飾している。「ロンドンの」と「ベーカー街221bに」の語の被修飾語からの距離は英語と同じである。なお、この和訳は不正確である。正しくは「シャーロック・ホームズの住所はロンドンのベーカー街221bだ」である。

     

     これに則れば、句と節が併用されている文では、節が句よりも前に訳される。日本語では節が句よりも前に置かれた方がわかりやすくなる。

     

     さらに、同様の見方から、前置修飾と後置が併用された文の場合、前者を後、後者を先に和訳する。副詞句や副詞節が後置されているとは限らないが、修飾語と被修飾語の絞りこみの遠近感から訳の順序を判断すればよい。

     

     日本語におけるわかりやすい修飾語の順番は、長い修飾語句から前に置くことではない。被修飾語の飾りつけとして周辺に位置するものを前に配置することである。概して、外側の飾りほど長くなる傾向がある。日本語は原則的に前置修飾だけなので、被修飾語からの遠近が修飾語の位置に反映される。

     

     本多勝一の第二原則の例文にも、この規則が適用できる。日本語はSOV型の言語である。倒置などはあるものの、述語動詞の前に他の語句が置かれる。語句の優先順位は、飾りによりもたらされる動詞との距離感によって決まる。句と節の並びが示しているように、飾りつけが多い語句ほど動詞から遠くなる。そのため、一般的に、長い語句が前に来る。これは、外側の飾りの語句ほど、被修飾語より離して配置する規則の援用である。日本語の語順のゆるやかさはここで効いてくる。

     

     

    頭括型と尾括型

    • 2012.02.28 Tuesday
    • 21:33
     

    頭括型と尾括型

    Seibun Satow

    Feb, 25. 2012

     

    「わずか一言でも下手に受け取られると、10年の功績も忘れられてしまう」。

    ミシェル・ド・モンテーニュ『エセー

     

     明治を迎え、文学者たちは近代社会を描写するのにふさわしい書き言葉を模索する。話し言葉に立脚した新たな書き言葉を構築する言文一致には多くが参加している。さまざまな方向性があったけれども、それは次第に語尾の問題へと収斂する。最終的に、「である」が中心的な地位を占めたと言えるだろう。

     

     「である」には「なのである」という類似した言い方がある。しかし、両者に機能の違いがあることは確かである。日本国憲法を始めとする法律の条文には「である」が使われても、「なのである」は見当たらない。その語尾にはそぐわないニュアンスがあるからだ。

     

     「である」と「なのである」の違いを検討してみよう。

     

     吾輩は猫である。名前はまだ無い。

     

     これは、言わずと知れた夏目漱石の『吾輩は猫である』の書き出しである。ところが、次のように書き換えると、違和感が生じる。

     

     吾輩は猫なのである。名前はまだ無い。

     

     まるでバカボンのパパなのだ。「である」を「なのである」に置き換えただけで、続く文とのつながりが悪くなる。「である」はこの小説の書き出しにふさわしいが、「なのである」はその任を果たせない。

     

     『吾輩は猫である』には「なのである」が数ヵ所で用いられている。最も連発される件を引用しよう。

     

     日本の人間は猫ほどの気概もないと見える。情なさけない事だ。こんなごろつき手に比べると主人などは遥に上等な人間と云わなくてはならん。意気地のないところが上等なのである。無能なところが上等なのである。猪口才でないところが上等なのである。

     

     今度は、逆に「なのである」を「である」に入れ替えてみると、次のようになる。

     

     日本の人間は猫ほどの気概もないと見える。情なさけない事だ。こんなごろつき手に比べると主人などは遥に上等な人間と云わなくてはならん。意気地のないところが上等である。無能なところが上等である。猪口才でないところが上等である。

     

     両者を比べると、オリジナルが非妥協的で、断定的な印象を与えるのに対し、改変後は穏当な感じがする。主張の強度に明らかに差がある。

     

     意見を述べる際には、その理由や根拠となる実例を示す必要がある。意見・理由・実例を対象や目的、場面、読者などに応じて効果的に配置しなければならない。意見をどこに、意見を表わす文をどこにするかで大きく二つのタイプに分けられる。冒頭にもってくる文章構造が「頭括型」、末尾に置くのは「尾括型」である。

     

     なお、英語のエッセイや論文では「双括型」を使うのが一般的である。作品全体ならびに各段落共に「導入(Introduction9」・「実例(Example)」・「結論(Conclusion)」の構成をとり、導入と結論の主張は原則的に一致させる。これを知らないままで英文を書くと、英語人から門前払いを食う危険性がある。この構成を利用すれば、長い英文の報告書や論文も短時間で読むことができる。

     

     「なのである」は尾括型で、結論としての意見の役割を果たす文の語尾に用いられる。頭括型では、意見の文章であっても、基本的には「なのである」は避けられる。その構成では、それが結論ではないからだ。

     

     「なのである」が意見を表わす機能があるとしたら、法律の条文に使われないのは当然である。特定の誰かの意見が法律と認められる体制はとても近代国家と呼べない。

     

     先に引用した『吾輩は猫である』の「なのである」から「である」への書き換えがもたらす印象の違いもこうした理由による。前者が主観性を前面に出して意見を言っているのに対し、後者が客観的な態度をとった事実を語っているようで、おとなしく感じられる。

     

     尾括型を頭括型に変える場合、意見の役割の文の末尾は「である」にしなければならない。一方、頭括型を尾括型に変更するときには、意見の文の末尾は「なのである」にした方が効果的である。

     

     尾括型でも、「である」だけで言い表すことができる。けれども、注意が必要だ。「である」の文は、それだけで事実を述べているのか、意見を訴えているのか判断がつきにくい。そうした文章作成する場合、文と文のつなぎが非常に重要となる。難しいだけに、作家の力量が試されるというものだ。「なのである」の意見は結論として提示されるので、これ以上の発展性を持たない。そういった余地を入れたいときに、「である」を巧みに使う方法もある。読者からは、ただし、迫ってこないだとかぎくしゃくしているとか印象を持たれがちになる。

     

     実は、書き出しに「なのである」が用いられる場合もある。ただし、その際、概して、最初の段落がこの一文だけで、すぐに第二パラグラフへと移る構成がとられる。先の意見に向かって以下の文章が理由や実例を挙げて循環して戻ってくる構造になっている。自分の意見を強く出したいときに、とられる手法である。

     

     「なのである」が濫用される文章には、その機能を理解した上で、書き手の意図を見極めるべきだろう。ジョークなのか、それとも独善なのかはTPOによっては重要な意味を持つ。前者なら笑えても、後者には警戒が要る。リテラシーからの認識にはこうした文章論の視座を不可欠とする。

     

     ここでは、「である」と「なのである」だけに限定したが、「だ」と「なのだ」の違いも併せて考えると、さらに文章における各文の役割が明確になるだろう。こうした言語への繊細な感覚が今の作家にも欲しいものだ。

     

     「である」や「なのである」の機能の違いをよく心得て使い分けている書き手もいる。一方で、それらの語尾を好まない作家もいる。谷崎潤一郎は「なのである」をわりに避けることで知られている。随筆『陰翳礼讃』ではわずかに5ヵ所だけである。それによりもたらされる文章の印象を受け取るだけでなく、内容と形式から深く掘り下げてみるのも文学のさらなる楽しみでもある。自然にあるいは不自然に感じられる文章にも、時として、作家が機能を利用してメッセージを織りこんでいる場合もある。それを見逃すのはもったいない。

    〈了〉

    参照文献

    谷崎潤一郎、『陰翳礼讃』、中公文庫、1995年、

    夏目漱石、『吾輩は猫である』、青空文庫

    http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/789_14547.html



     

    「らしさ」の体験 文章論としてのリテラシー・スタディーズ 佐藤清分

    • 2012.02.09 Thursday
    • 21:28
     

    文章論としてのリテラシー・スタディーズ

    Seibun Satow

    Feb, 10. 2012

     

    「ルールブックを覚えただけで、より良いプレーができるわけではない、ということも事実であろう。勝つための戦略とか、こういう場合にはどう動くべきかといった戦術、等々、ルールブックには書かれていないいわば『解説』である。母語話者にとって必要なのは、むしろこの『野球の解説』のような説明ではないだろうか。自分自身のプレー向上のため、という点ではもちろんであるが、トッププレーヤーのすばらしいプレーを的確に説明してくれる解説者の言説は、野球をより深く理解するためにも有効である」。

    杉浦克巳『日本語学』

     

     語と語が組み合わさって文が形成される。各語にはそれぞれ機能がある。文は動作や様子、挨拶、要求、心情、意見などを表わすことができる。さらに、文と文が組み合わさって文章が形成される。各文にはそれぞれ機能がある。文章は時間・空間の推移が伴う変化、理由・関係に基づく説明などを表わすことができる。語と語、ならびに文と文の組み合わせを成り立たせている仕組みは、暗黙知・明示知の規則・規範に従っている。書き手と読み手は、それを共有した上で、コミュニケーションをする。組織化された文や文章は詩歌や標語、広告コピー、メール、報告書、企画書、手紙、日記、小説、諷刺、随筆、記事、論文などとさまざまなジャンルで呼ばれる。

     

     文を考える際には、構成している語の機能を明らかにすることが必要である。また、文章を考える際には、構成している文の機能を明らかにすることが必要である。組み合わせの規則や規範は広義の文法に属する。これを「リテラシー」と呼ぶ。この文法は使用者に固有の発想をもたらす。それは、歴史的な姿や他言語と比較した際に、明瞭になる。その上で、全体がどのように構築され、いかなる作用をもたらしているか、内容と形式はどんな関係をしているかを考察する。

     

     従来、文芸批評は作家論や作品論、文体論が主である。しかし、リテラシー・スタディーズは言葉の単位として文章を考えるこうした文章論的アプローチを採用する。精緻であると同時に、汎用性が高く、共時的・通時的問題にも強い。文章論によって作家論や作品論、文体論の文学的体系も再構成できる。

     

     リテラシーに着目する解剖学的読みは、文学作品のような文章の構造が複雑な対象であっても、有効である。ほんの一例を示そう。

     

     芥川龍之介の『羅生門』は、よく知られたように、主格の助詞の「は」と「が」が効果的に使い分けられている。

     

     ある日の暮方の事である。一人の下人が、羅生門の下で雨やみを待っていた。

     

     この書き出しの段落では、「下人が」であるが、以下では「下人は」が用いられている。しかし、場面が変わって、新しい人物が登場する際には、「が」が一度だけ使われ、以下はまた「は」が続く。

     

     それから、何分かの後である。羅生門の楼の上へ出る、幅の広い梯子の中段に、一人の男が、猫のように身をちぢめて、息を殺しながら、上の容子を窺っていた。楼の上からさす火の光が、かすかに、その男の右の頬をぬらしている。短い鬚の中に、赤く膿を持った面皰のある頬である。下人は、始めから、この上にいる者は、死人ばかりだと高を括くくっていた。

     

     「は」と「が」の役割の違いの研究は、現在まで、非常に蓄積されている。一部不明の用法もあるが、『羅生門』の用法は従前の成果から説明できる。

     

     両者の機能の差異を理解する際、次の二文の比較が示唆を与えてくれる。

     

     犯人はあなただ。

     あなたが犯人だ。

     

     眠りの小五郎(コナン君)や金田一少年がそう言った場合、いずれであっても、誰が犯人であるかが重要である。すでに犯罪が起きているのだから、「犯人」は旧情報であるが、それが「あなた」だということは新情報である。「犯人」=既知情報、「あなた」=未知情報という関係が成り立つ。既知情報を先に言う際には「は」、未知情報であれば、「が」がそれぞれ使われている。ここから二つの助詞の使い分けの基準は情報の新旧ということが導き出せる。

     

     未知情報は「が」の前、既知情報は「は」の前にそれぞれ置かれる。最初の段落で下人は初めて登場する。この場合、下人の存在が未知情報であるから、その後には「が」が用いられる。一方、それ以降では下人は既知情報であるので、その後には「は」が来る。その時点では、下人の存在ではなく、彼が何をして、どう考えているかが関心事である。その後、場面が展開し、新しい人物が登場すると、「が」が再度使われる。

     

     非常に巧みだと言いたいところだが、実は、文豪でなくても、昔話を語ると、暗黙のうちに「は」と「が」の使い分けが次のようにできてしまう。

     

     むかし、むかし、あるところに、おじいさんとおばあさんがおりました。 おじいさんは山へ柴刈りに、おばあさんは川へ洗濯に行きました。

     ある日、おばあさんが川で洗濯をしていると、川上から大きな桃がどんぶらこ、どんぶらこと流れて来ました。

     

     昔話は未知情報と既知情報を効果的に織り交ぜつつ読者=聞き手を世界に惹きこむ、「は」と「が」の使い分けは重要な機能を果たしている。二段落目に場面が展開すると、おばあさんの存在が一旦リセットされるので、「が」が使われている。大きな桃は初出であるから、「が」が後に就く。『羅生門』の文章構造は、もちろん、これほど単純ではない。複雑でありながらも、明確に使い分けられていることに驚きを覚えずにいられない。芥川龍之介はこうした暗黙知を明示的に作品上で展開して見せたと推察できよう。

     

     『羅生門』は、周知の通り、『今昔物語集』の2918話に素材を求めている。『竹取物語』が現存する最古の物語文学の一つとされている。それ以来、物語にはいくつかの決まりごとが見られる。『今昔物語集』も踏襲している。

     

     物語は「今は昔」で書き出され、伝聞推定の助動詞「けり」で終わる文が三つ続く。以下は、現在形だったり、過去形だったり、完了形だったりと定まらない。語っているように叙述するためである。盛り上がってきたところで、伝聞推定を使ったのでは、臨場感が損なわれる。その後、物語が幕を閉じる際に、また「けり」で終わる文が用いられる。読者=聞き手に対して物語世界を開くときと閉じるときに「けり」が使われる。

     

     「は」と「が」の使い分けや「けり」の使用は、その作家「らしさ」と言うよりも、物語形式、すなわちジャンルの要求する「ふさわしさ」に則っている。『羅生門』では、「ふさわしさ」を踏まえつつ、それをより効果的にする芥川龍之介「らしさ」が表象している。文体は「ふさわしさ」と「らしさ」の二重構造をしている。ある形式・ジャンルを選択したら、送り手と受け手の間にその共通認知が成り立つ。さらに、その効果を高めたり、低くしたりするのは書き手の裁量に任されている。

     

     「ふさわしさ」と「らしさ」の関係は新聞記事を例にとるとわかりやすい。新聞記事は、文章構造が要点先行の逆三角形をしている。また、共同通信社が刊行している『記者ハンドブック』において表記や用語、文・文章の組み立てなど「ふさわしい」文体が比較的明確にされている。これらを踏まえた上で、各記者は記事を作成する。同じニュースであったとして、書き手「らしさ」が表われ、原稿の出来上がりは異なってくる。

     

     狭義の文体論、あるいは文学読解で使われる修辞学は「らしさ」、すなわち作家の個性による文体の考察である。文体は社会性=「ふさわしさ」と個性=「らしさ」の二つの基軸によって様相が規定される。文体における「らしさ」は「ふさわしさ」を必須とする。「ふさわしさ」の基準は用語や表記、文・文章の組み立てなど数多くの要素に及ぶ。それを母語話者は「ふさわしく」使い分けている。

     

     「ふさわしさ」は二つの基準を提供する。一つは内部の許容範囲である。書き手は任された裁量権を行使するときに、各種の取捨選択を通じて個性が表出する。もう一つは逸脱する際の枠組みである。イノベーターはそれをアイロニカルに利用する。そうは言うものの、「ふさわしさ」と「らしさ」の境界は曖昧である。文体の特徴は、しばしば、形容詞もしくは副詞によって言い表される。それは相対的であることを示している。

     

     現在、日本語の文体の基本形は漢字ひらがな交じり口語体である。日本語の書き言葉は標準語をベースにしている。と言うよりも、標準語は書き言葉を基礎づける話し言葉であり、それはデジュール・スタンダードではなく、デファクト・スタンダードである。歴史的に見て、戦後は基本文体が統一された初めての時代だと言ってよい。平安時代であれば、公文書は漢文、和歌はひらがなだけで記されている。また、明治時代の法律の条文は漢字カタカナ交じり文語体で書かれ、文学界は言文一致を模索している。

     

     文字の用い方が文体を最も特徴づける。その上で、語の使い方や文の組み立て方が決まる。さまざまな過程が入り組んだ結果によって文体が定着している。公文書や実用書などのように形式主義の強い書式に沿った文体が広まったり、想定される読者に合わせて創意工夫された文体が認知されたり、社会や時代、媒体、筆記用具の変化に対応した文体が共有されたりする場合もあるだろう。中には、登場したものの、淘汰された文体もあるに違いない。受容と淘汰を経て、文学のみならず、社会における書き物の各ジャンルにふさわしい文体が形成される。文章論から考察する場合、ジャンルへの意識を強く持つ必要がある。

     

     「ふさわしさ」と「らしさ」からの把握は、登場人物の理解の際にも、有効である。人物は属性と個性を持っている。それらは言葉遣いやしぐさ、表情、知識、技能、認知特性などを通じて連合的に描写される。その文体と叙述が「ふさわしさ」と「らしさ」において適切であるかどうかは作品の出来をしばしば左右する。ただ、ジャンルによって両者の調合は異なる。諷刺性が強くなれば「ふさわしさ」が強調され、空想性を追求すれば「らしさ」が前に出てくる傾向になるだろう。

     

     絶対的な真理はないとして、作品を作者の意図から解放し、自律的なものとしてその文章自体を読む。こうした姿勢はテキスト論と総称できよう。テキスト論が流行した際、「テキスト(Text)」を「織物(Textile)」に引っかけて読解を展開することが提唱されている。しかし、それは文学者・研究者が服飾に関して半端な知識しか持っていないことを告げている。テキスト論者は織り成しを口にしながらも、それが何たるかも理解せず、ただ何となく隠喩として利用したにすぎない。その思いつきと思いこみの姿勢は恣意的な解釈を蔓延させてしまう。

     

     被服の基本構成要素は繊維である。被服材料として用いられる布は、その繊維を束ねた糸を組み合わせの作業工程を経て集合させた構造体である。主要な布は「織物」と「編物」に二分できる。

     

     織物は平行に配列された縦糸に直角の方向から横糸を交錯させた基本構造をしている。織物は薄く、均質で、糸軸方向に強い。斜め方向から力が加わった場合、縦糸と横糸の尾交差した角度が変化するため、変形しやすい。しかし、それにより平面形状でありながら、立体曲面に対応できる。ただし、型崩れに注意が要る。


     一方、編物は屈曲した糸のループが連続する網目の基本構造をしている。ループが立体的に絡み合っているため、糸相互の接触圧が小さく、その自由度が大きい。また、編地に力が加わると、ループ形状がその方向に容易に変形すると同時に、糸自身の弾性によって元の安定状態に戻ろうとする。編物は、そのため、織物以上に伸縮性を持っている。ただ、型崩れしやすく、改まった場面での編物の被服の着用は避けられる傾向にある。

     

     さらに、衣服として着用すると、さまざまな布の変形が複雑に生じ、その力学的性質と表面特性が相まって、固有の着心地が感じられる。主に力学的観点に絞って織物と編物から被服に簡単に触れたが、もちろん、これだけで話は終わらない。

     

     この被服の考え方は先に述べた文章論の思考方法と同じ過程をたどっている。リテラシー・スタディーズはこうした思考方法の総称であって、文芸批評のみならず、他領域へも拡張できる。マンガも線とコマの組み立てと捉えれば、この方法論が使える。その汎用性のために、現代の学際的状況にも対応し得る。複数の領域に亘る対象を同時に扱うことが可能だ。文学も学際化の流れの中にある。特定領域に閉じこもり、それ以外には無関心になることはもはや許されない。文章論としてのリテラシー・スタディーズは、こうした状況に「ふさわしく」、新たな「らしさ」の体験を提供する。

    〈了〉

    参照文献

    牛腸ヒロミ、『ものとして、心としての衣服』、放送大学教育振興会、2011

    杉浦克巳、『日本語学』、放送大学教育振興会、2009

    青空文庫

    http://www.aozora.gr.jp/


     

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