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    コンテクスト志向演技

    • 2012.01.11 Wednesday
    • 21:49

    コンテクスト志向演技

    Seibun Satow

    Jan, 09. 2012

     

    「本来は、ことばは単純に記号化されてすむのではなく、状況や関係性の中でゆらぐ。それが、ことばの心というものだと思う」。

    森毅『京ことばのモラル』

     

    第1章 スタニスラフスキー・システム

     今日の演技理論のヘゲモニーを依然として掌握しているのはスタニスラフスキー・システムだろう。それは内面から演技をつくっていく手法で、「メソード演技」とも呼ばれる。本来舞台向けの理論だが、リー・ストラスバーグとその教え子たちによって映画にも影響を与えている。

     

     コンスタンチン・セルゲーヴィチ・スタニスラフスキーの演劇論も時期によって変遷している。テキスト読解を含め俳優の即興尊重した時期もあれば、稽古の過程を演出家が完全に掌握すべきだと考えていた時期もある。おまけに、『芸術におけるわが生涯』も『俳優の仕事』も大著で、これを要約するのも骨だ。しかし、スタニスラフスキー・システムの基本的な考えを近代演劇の理念から把握すると、それほど難しくはない。

     

     俳優は演技を通じて観客とコミュニケーションを行う。近代芸術の真の主役は近代社会である。近代演劇はそこに出現した近代人を扱う。その人物が芸術作品に登場するに足る根拠は心理描写に求められる。かつての演劇の主役は英雄であったり、超自然的存在だったりで、等身大ではない。加えて、芝居には多くの決まりごとがあり、俳優も観客もそれを共有して交歓している。ところが、近代演劇は、さもない近代人を中心に据え、遺産相続社会のお約束事は成り立たない。俳優と観客の間に新たな共通基盤を構築する必要がある。それが心理描写である。ありきたりの人物であっても、内面に眼を転ずれば、そこには奥深いドラマがある。しかも、主人公が等身大である以上、観客にもそれと共通するものがある。近代演劇において役者は、観客とのコミュニケーションのため、内面の演技に向かわざるを得ない。

     

     スタニスラフスキー・システムはこの近代演劇の理念に忠実な演技法である。役者は自分の感情や経験を想起し、登場人物のそれに応用する。一つの音を発話する際にも、その心を感じなくてはならない。自分の記憶が発話と観客との共感の根拠となる。それは近代演劇の理念が保証している。この方法論を身につけるならば、俳優はインスピレーションに頼ることなく、知力・欲求・情緒が絡み合いながら、創造的に演技を展開できる。戯曲に文字として記された真実らしさは、こうした役者のリアルな演技を通じて、重要性を失う。

     

     非常に優れた方法論であり、近代演劇の演技には効果的である。けれども、心因論に依拠する点に限界がある。スタニスラフスキー・システムは内面とその表出が解釈によって線的に捉えている。それはジクムント・フロイトの精神分析を思い起こさせる。しかし、表出がどのような内面と結びついているのかはそれほど明確ではない。DSM-IV・ICD10に基づく精神医学は、PTSDなど一部の例外を除いて、心因論を採用していない。明確な原因があるから精神疾患を発症するわけではない。人間の心理はそんなに単純ではない。病を例に出すまでもなく、ある表出の原因が内的にはっきりと認められるわけではない。

     

     また、内面から演技をつくる方法は個人的特性を始めとする連合的情報を重視している。けれども、ある連合的情報を秘めた演技を見ても、発信側と受信側の間で理解は同じであるとは限らず、解釈が割れる。しかも、内面からの演技は対象志向であり、俳優が役を管理し、自己完結しやすくなる。結果、目標対象と合一化することを演技だと思ったり、本来目指していた普通の人ではなく、サイコパスなど特異で自己完結性の強い精神の人物を演じることに役者魂を見出すに至ったりしてしまう。さらに、異文化や異なった時代の人を演じる際にも、内面からの役作りは困難である。そもそも内面自体に関する考えも異質だったりする。なるほどメソード演技に立脚して古典劇が上演されているが、それはあくまで近代的な一つの解釈である。内面は他者にすれば推察するものであって、複雑な構造をしたそれを把握することは難しい。スタニスラフスキー・システムの理解が解釈者によって異なったり、万能論を主張する信奉者がいたりする理由も明白だろう。(『記号的情報』と『連合的情報』に関しては後述する)

     

     

    第2章 専門用語とコンテクスト

     2011101日より全国で公開された『はやぶさ/HAYABUSA』は小惑星探査機「はやぶさ」プロジェクトを題材にしている。主役を演じた竹内結子が各種のメディアからインタビュー取材を受けている。彼女が扮した役は宇宙科学研究所(現JAXA)の女性研究生水沢恵である。役作りの際に、「専門用語がたくさんあって、セリフが大変でした」と振り返り、わからない用語はインターネットで検索したと付け加えている。

     

     しかし、実在の出来事をモデルにした映画の主演女優がこのような談話を口にすることは信じられない。竹内結子の役作りは方向性が間違っていると言わざるを得ない。

     

     専門用語は、コミュニティ内部でのコミュニケーションを円滑に行い、誤解のないようにするために使われる。その目的に則り、定義や用法も厳密に決められている。専門用語はコミュニティのコンテクストから生まれてくる。専門用語を文脈と有機的な関係にあることを認識せず、その世界を舞台にした作品の出演者がそれと切り離して覚えようとするのは本末転倒である。

     

     竹内結子は専門用語をネットで検索したと言っている。しかし、専門家が知識を共有するために、利用されてきたインターネットでは、断片的な情報が集積しているだけである。暗黙知の一種であるコンテクストを検索することはできない。

     

     このコンテクストは、専門用語以前に、物理学者であれば誰もが暗黙のうちに共通理解である。自然科学において単位の共通化は欠かせない。その際、特定の物質に依存することは避けられる。物理学の基本単位は、長さはメートル、質量はキログラム、時間はセカンドであり、大きな数あるいは小さな数を表わす場合でも、それは変えずに、累乗を使う。と言うのも、この中で、kgだけは原器を用いているものの、他の二つは物理学の理論によって基礎付けられているからである。はやぶさプロジェクトのメンバーは、当然、これが身体化されている。

     

     竹内結子の役は実在の人物をモデルにしていない。それはこの共同体のコンテクストを具現化した理念型でなければならない。現実のはやぶさプロジェクトは彼女なしで動いている。そこに一人加えるのだから、その人物はコンテクストに融合的でなければ、事業が破綻しかねない。プロジェクト・チームにはバランスがあり、構成員が一人増えるかどうかは実際には大問題である。映画におけるその役割は、自分を通じて観客へ共同体のコンテクストを伝達することになる。

     

     観客の中には天文マニアの女子大生がいるかもしれない。星空に興味を持ち始めてから、天文関係の書籍や雑誌を読み耽るようになる。望遠鏡やカメラを始めとする天文観測のツールを買い、夜空の撮影に出かけ、時々、写真を専門誌に投稿もしてみる。高校では天文部に所属、この部活で天文愛好家の人脈も広がる。服装は母親が買ってきたのをただ着るだけ、アウトドアの際に邪魔にならないように、ヘアー・スタイルは実用性重視のショート・カットである。また、どういうわけか視力が下がってしまい、メガネは冬季の夜間撮影のときに曇ることがあるので、コンタクト・レンズを使用している。大学に進学後、天文学を体系的に学び始める。そこで、星のことだけを知っていればいいのではなく、幅広い関連領域についての知識が要求されると痛感する。サークルや研究室を通じて、人脈は天文マニアだけでなく、学者にも拡大する。依然としてファッションには興味はない。実用性重視の無難なものを選ぶ。メークは、仕方なく、することもある。慣れていないので、指先がよく動かず、仕上がりは幼稚園児のぬり絵並である。メークしているときは自分ではない気がする。天文のことをしているときが幸せだと感じる。年齢よりも幼く見られがちである。そんな人から見て納得できるかは、竹内結子の演技がコンテクストを志向しているかにかかっている。役者は自分の演じる役柄の本職が観客にいることに気づいていなければならない。

     

    第3章 記号的情報と連合的情報

     加えて、竹内結子のファッションやヘアー・スタイル、メークの理由もはっきりしない。それらは個人の嗜好が優先されない。場や所属する共同体の許容範囲が大枠を規定する。場の要求する「らしさ」や共同体のアイデンティティを逸脱することは許されない。

     

     ファッションを例にとろう。服装を通じて自己は他者へ印象を送り、それに反応・形成する。服飾は「記号的情報」と「連合的情報」が他者に伝達される。前者は社会的属性などで具体的・一義的、後者は個人的特性といった抽象的・多義的なものである。

     

     人が服飾を選ぶ際、その理由は次のような階層構造をしている。

     

    階層名

    内容

    衣服層

    衣服の色・形態・生地

    装飾層

    装飾品・小物類等

    身体層

    着装者の特性

    環境層

    着装場面

     

     着装はこのような階層構造を経て取捨選択されている。下のレイヤーほど強制力が強く、記号的情報に属している。派出所の巡査が制服、内偵中の刑事が私服を着ているのも、環境層が強いる違いである。浴衣で葬式に参列したり、タキシードを着て登山に挑んだりなど場面をわきまえずに衣服を選ぶと、その人は社会性がないと判断される。アイロニーを強調する芸術作品では、見えすいたことに、場面を無視した着装者がよく登場する。

     

     この階層構造に従って選ばれたファッションは、まず、記号的情報を見る人に伝えられる。これは具体的・一義的で、誤解の余地は少ない。逆に、着装がそのコンテクストを顕在化させる作用を持っている。

     

     ところが、連合的情報は受信者にどう伝わるかわからない。送信者の意図と違う理解が生まれることもしばしばである。受けとる人によって、「若々しい」と感じられたり、「年甲斐もない」と見られたりする。連合的情報は、記号的情報と異なり、コンテクストを必ずしも伝達しない。

     

     このように検討してくると、竹内結子のファッションやヘアー・スタイル、メークが連合的情報に傾斜していることがわかる。共同体のコンテクストを体現する役目なのに、記号的情報を軽視しては、それが観客に伝わってこない。なぜメガネをかけているのか、なぜ髪を束ねているのか、なぜそのスーツを着ているのかを共同体の側から説明できない。この女優は演技を考える際に、コンテクストの考慮をおろそかにしていると言わざるを得ない。

     

     インタビューを聞く限り、どうも竹内結子は仕事に一途な女性として役を演じていたようである。しかし、映画『プラダを着た悪魔』では仕事に没頭し、見てくれを二の次にする女性がいかなるファッションを選択するのかがよく示されている。冒頭に、アン・ハザウェイ演じるアンドレア・サックスが上体を前に倒さないまま、ブラをつけるシーンがある。これは彼女がファッションに無頓着だという意味のカットである。また、メリル・ストリープふんするミランダ・プリーストリーは、彼女のファッションについて、一昔二昔前のモードだと詳細に指摘する。こうした女性は、ファッションやヘアー・スタイル、メークはある時期でとまっている場合が多い。時代遅れだったり、サイズが合っていなかったりするものだ。

     

     無思想の演技は女優だけのせいではない。堤幸彦監督にも大いに責任がある。俳優の演技は映画のリテラシーに制約される。それはカメラを通じて構成され、カットによって切断されて、フィルム上に平面化される。物語の進行とシーンの撮影順序は一致しないことが常で、おまけにせっかく演じたのに使われないテイクも多々ある。映像は役者の演技を増幅も抑制もする。映画の時間・空間は俳優に支配され得ない。その意味で、確かに、映画は監督のものである。

     

     ずぶの素人が何の用意もせずに舞台に立つのは難しいが、映画では、このリテラシーのため、ベテラン俳優を上回る存在感を発揮することがあり得る。演劇では、幕が上がったら、脚本家も演出家も手の出しようがない。そこは役者が独占する世界である。コンスタンチン・スタニスラフスキーは『芸術におけるわが生涯』で言う。「舞台の唯一の帝王、支配者──それは才能ある俳優である」。反面、同じセリフを同じ相手と交わす反復のため、演技が小さく、まとまってくる傾向がある。また、役者は全体の流れを承知しているから、プロットを運ぶことに気をとられがちになる。映画は、撮影・編集の作業が加わるので、自己完結していない演技が望ましい。観客にフレームの外を想像させてしまう演技が欲しい。素人は技術が乏しいため、自分自身の内観への手探りの過程が露見する。この未完の開放性を監督が生かすと、お約束の演技に終始するベテランを凌駕する。

     

     経験のある俳優であれば、コンテクストを志向することで、自己完結性から脱却できる。コンテクストは俳優の記憶や経験だけでは認識できない。意識的な認知の構築が不可欠である。その際、監督がコンテクストを意識せざるを得ない仕掛けを用意しておけば、俳優もそれをうまく利用できる。映画では舞台以上に演技にコンテクスト志向が必要となる。

     

     ただし、コンテクストを志向する演技は目標対象と合一化することではない。各種のインタビューなどで『はやぶさ/HAYABUSA』の佐野史郎が実際の川口淳一郎になりきろうとしたことが賞賛されている。しかし、それは彼の役者としての「味」であって、演技の「質」ではない。かりに「そっくりだ」で完結した評しか得られないのでは、いい役者とは言えない。リアリティはコンテクストの有機的な顕在化であって、断片的な細部へのこだわりではない。似ても似つかないにもかかわらず、その人を感じさせる演技もある。映画『アンストッパブル』でフランク・バーンズに扮したデンゼル・ワシントンがその一例である。

     

     

    4章 身体化された認知

     記号的情報は、原理上、誤解の余地がない。それを媒介にして俳優と観客の共通基盤を構築することは効果的である。俳優はあるコンテクストの表象で、観客と演技を通じてそれを共有する。そのコンテクストは作品の外につながっており、役者で自己完結することはない。舞台はさておき、映画にとってこれは望ましい。

     

     コンテクストから役作りをする方法を「コンテクスト志向演技(Context Oriented Act)」と呼ぶことにしよう。演技を先の階層構造の下から段階的につくっていく。俳優と観客のコミュニケーションを記号的情報を共通理解とした上で、連合的情報へと進める。ただ、連合的情報は多義的であるから、内面よりも表出に重点を置く。コンテクスト志向演技は社会化を具現する方法論である。

     

     コンテクストの認知はカール・マルクスの『経済学批判』序文の有名な一文に要約できる。「人間の意識がその存在を規定するのではなくて、逆に人間の社会的存在がその意識を規定する」。これを実感するのはたやすい。新聞を開けばよい。それぞれの部署が固有の見方から記事を書いている。重要ニュースの場合、同じ新聞であっても、政治面と経済面、社会面、国際面では取り扱いがまるで違う。各々のコンテクストが異なっているため、見方や受けとめ方も変わってくる。

     

     こういう視点の違った記事を異動してすぐに書けるわけではない。新聞記者は担当分野の認知傾向を自分自身に叩きこむ努力を経て、それがようやく可能になる。記者はコンテクスト志向でないと務まらない。

     

     新聞記者は、演技を考える際に、二重に参考になる。一つはコンテクストが違うと、同じ事件や出来事に対しても、意識や見方が異なる点である。もう一つはそのコンテクストがもたらす固有の認知を身体化した上で、記事を書く点である。

     

      新聞記者の認知が身体化される過程に関して、興味深い証言がある。軍事ジャーナリストの田岡俊次は、『北朝鮮・中国はどれだけ恐いか』の中で、68年に朝日新聞東京社会部の防衛庁担当になった頃のことを次のように回想している。

     

     それまでは半分趣味だった軍事問題の勉強が職務になると、睡眠中を除き一日16時間は軍事問題を論じたり、資料を読んだり、新聞や専門誌の記事を書いたり、となるから、楽しい反面、世間離れするのではないか、と不安にもなった。省庁の担当記者は朝も社には行かず、私の場合直接防衛庁に通勤し、記事も普通は記者室から送り、夜も防衛庁・自衛隊や米軍の将校たちと付き合って帰宅するから、社内よりも防衛庁との関わりあいがはるかに大きく、頭の中は軍事史や軍事技術、当面の防衛上のテーマで一杯になる。

     ただ一般の人々が思いがちなように防衛問題は狭い分野ではない。「軍事知識と省きの名を知ることか」と思っている人も少なくないが、これは「経済学とは簿記のこと」「医学とは薬の名を覚えること」と思うほどの無学であって、古今東西の歴史や地理、多くの条約や各国の政治。経済情勢など広い基礎知識が必要だし、専門用語を使いこなして諸外国の将校や海外の軍事記者、研究者と議論できねばならない。一つの軍事技術や条約の知識を欠いただけで、トンチンカンな議論をする危険もある。だから軍事問題を専門にしても、他の分野と比較して視野が狭くなることはなく、むしろ知れば知るほど学問の分野としての幅の広さ、奥の深さを感じ、不勉強を自覚するものだ。

     だが、発想や支店がつい担当する分野の人々と似てしまうことは、特定の分野を長く担当する記者に起こりがちだ。私は、「報道機関の社会的機能の第一は批判にある。批判なしに政府の主張を伝えるのなら官僚で十分。報道機関は問題点の早期発見につとめ、大事にいたらないようにする警報灯の機能を果たすべきだ」と主張してきたし、取材先に迎合しなくても十二分に取材はできた。

     

     演技を考える際に、非常に参考になる見解である。新聞記者は担当分野に固有の認知を身体化するために努力を費やす。観察したり、会話をしたり、専門用語を覚えたりする程度で身につくものではない。その体系を有機的に把握することが不可欠だ。それを怠ったり、記者の本分を忘れたりすると、迎合して取材しようとする。ここからステルス性、すなわち無責任やトレードオフ、すなわち癒着が生じる。優秀な記者はそれに自覚して批判的な認識を持っている。担当領域固有の認知の身体化と取材対象との距離感覚その記者の優劣につながる。もし新聞記者の役を得た場合、この二つの機軸のどこに位置するのかで演じ分けの幅が広がる。

     

     なお、防衛省・自衛隊の担当は少々入り組んでいる。大臣官房と各局の内局は政治部ならびに社会部の担当である。ただし、前者は国会が主な現場である。自衛隊の陸海空幕僚監幹部・統合幕僚会議、在日米軍などはもっぱら後者部が扱う。先に述べた通り、田岡記者は政治部所属である。実は、彼の名が新聞界で一躍知られるようになったのは、安全保障問題ではなく、公共工事の談合をめぐる報道である。

     

     補足すると、新聞の部署は場合に応じて管轄が変更される。企業が不祥事を起こし、幹部が記者会見場でうろたえているのは緊張しているからではない。普段、財界人は経済部の記者と付き合いがある。ところが、記者会見場には、まったく面識のない記者が陣取り、厳しい質問を浴びせかける。彼らは警察や司法などを担当している社会部の記者である。政治部の貴社は財界の見方に沿って取材してくれるが、社会部はそれに迎合しない。「あってはならないこと」の記者会見は、社会的存在が異なれば、意識も違ってくる実態を一目で実感できる瞬間である。

     

     くさばよしみの『それいけ!新聞記者』には、新聞記者の見る悪夢が部署ごとに次のように掲載されている。

     

    運動部記者

    原稿が書けない

    整理部記者

    (何度やっても行数が合わない等によって)しめ切りに間に合わない

    デスク

    (事件や事故が起きているのに)記者がだれもいない

    社会部記者

    生きている人の死亡記事を書いた

    経済部記者

    取材相手にまかれた

    写真部記者

    絶好のチャンスで電池が落ちた

    編集長

    できあがった新聞がなぜか真っ白

     

     身体化された認知は仕事から離れて眠っている間でさえも記者の心理をこのように支配する。

     

     個々の記者の性格を根拠に演じ分けることはもはや不十分である。正直、田岡のような優秀な記者ばかりではない。今の記者には、自分の原稿を大きく掲載するために、内容を短絡的な図式化できるようにし、詳細な分析を省くものも少なくない。新聞の見出しを見ると、東西冷戦がまだ続いているのかと錯覚してしまうほどだ。各省庁の記者会見場など、ろくに質問もせず、担当者の発表をも黙々とパソコンで原稿に仕上げている記者の姿も見られる。彼らは、異動になると、前任者の記事を読み、その路線から外れないように心がける。予算の維持・獲得を目的とした現状にそぐわない説明を担当者から受けたとしても、そのまま垂れ流す。日本の高級官僚は法学部出身者が多く、前例に基づく「解釈」に終始し、新たな事態に向けた見通しが弱い。突っこみどころ満載のはずだ。ところが、記者が日頃の勉強を怠っているため、担当者を質問でやりこめるくらいでなければ権力の監視の役も果たせないが、肝心のことができていない。これだけ多いと、記者の性格の問題として片付けるべきではない。演技者はコンテクストから状況を把握し、その上で個別対応に臨む必要がある。

     

     映画には新聞記者がよく登場する。主役の場合も少なくない。しかし、取材のカットが多く、実際に原稿を書くシーンは稀である。けれども、記者は記事にする目的で、取材している。記事作成には、逆三角形構造を代表に細かな決まりごとがあり、このリテラシーが記者の認知を規定する。リテラシーは共通理解を強いる。記者のコンテクストはリテラシーと密接に結びついている。

     

     新聞のリテラシーに基づいて身体化された認知は、『それいけ!新聞記者』によると、記者についつい次のようなことをさせてしまう。

     

    5W1Hで追求してしまう

    赤線を引きながら本を読む

    おおざっぱな言い方にツッコミを入れる

    つい見出しをつけてしまう

    子どもの作文にダメだしをする

    言葉の乱れが気になる

    しめ切りがないとなかなか書かない

    場所取りがうまい

    パトカーや消防車を見かけると追いかける

     

     もし新聞記者に扮するなら、俳優は新聞のリテラシーを簡単にでも学ぶと、固有のコンテクストを把握しやすくなり、リアルな演技につながる。もちろん、これは新聞記者に限らない。他の職種にも言える。基本的なリテラシーを習得して認知を身体化してしまえば、役者は意識せずとも、自然な演技が可能になる。その上で、個々の役柄を演じ分ければよい。

     

     身体化された認知は、コンテクストを異にする人とは必ずしも共有されてはいない。コンテクスト志向演技は、経験や記憶といったすでにあるものに共通立脚するではなく、俳優と観客の共通基盤を新たに構築していく。現代社会はさまざまな領域で多様化・相対化・複雑化している。そのため、共通理解を見出すことが難しい。開き直って何でもありだと恣意的な態度に終始したり、観客をこっちに向かせればいいだろうとサプライズやハプニングに頼ったりする試みも間々ある。しかし、俳優と観客の共通基盤を積極的に編み出していくことが建設的だろう。コンテクスト志向演技はこうした社会のありように呼応する方法論である。

    〈了〉

    参照文献

    小栗康平、『映画を見る眼』、NHK出版、2005

    くさばよしみ他、『それいけ!新聞記者』、フレーベル館、2006

    田岡俊次、『北朝鮮・中国はどれだけ恐いか』、朝日新書、2007

    平田オリザ、『演技と演出』、講談社現代新書、2004

    藤原康晴他、『服飾と心理』、放送大学教育振興会、2005

    森毅、『21世紀の歩き方』、青土社、2002

    コンスタンチン・スタニスラフスキー、『芸術におけるわが生涯』上中下、蔵原惟人他訳、岩波文庫、2008

    コンスタンチン・スタニスラフスキー、『俳優の仕事』全3部、岩田貴他訳、未来社、200809


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