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    ネットは政治を変えるか

    • 2012.12.22 Saturday
    • 18:16
     

    ネットは政治を変えるか

    Seibun Satow

    Dec, 21. 2012

     

    「インターネットには情報があふれていると言いますね?それは嘘です。私が見てもわからないものがそれこそ山ほどあります。私がわからないものは情報ではありません」。

    河合明宣

     

     インターネットが選挙運動の際に最初に注目を浴びたのは2000年の米国大統領選挙である。80年代に公民権を獲得した若年層、すなわちジェネレーションXがブログやメーリング・リストなど新たなウェブ・サービスを活用して、政治参加する。これは世間を驚かせる。従来、この世代は三無主義のしらけ世代で、TVゲームに遊び耽るだけ、政治に興味がないと思われていたからだ。

     

     「ジェネレーションX(Generation X)」という名称はダグラス・クープランドによる同名小説に由来する。この作家はマガジンハウスで働いていた経験があり、『ジェネレーションX』は田中康夫の『なんとなく、クリスタル』のリメークと言っていい作品である。

     

     しかし、ジェネレーションXは、全般的に、リベラルであり、政治に背を向けてきたわけではない。このリベラルは国家ではなく、市民社会に基礎を置く多元主義である。彼らはネットの理念「自立・分散・協調」を信じ、その実践を試みている。協力を必要とする公共性への関心は以前から持っている。公共性や公益性への貢献に関して並々ならぬ意欲を秘めている。

     

     2000年の選挙の主要な争点の一つに、地球温暖化を始めとする環境問題が含まれている。これは非常に公共性の高いトピックである。ジェネレーションXはこの問題に沈黙を決めこむわけにはいかないと思い、なじんできたネットを利活用して政治にコミットメントする。メールを使って政治集会を呼びかけ、ブログで自分の意見を表明する。インターネットはその出自からも公的情報の共有に適している。先行世代と違うマイ・ジェネレーションの政治活動を展開し、ネット上に建設的な政治議論が満ち溢れる。

     

     この動きは、日本を含め他国にも影響を与える。2000年の長野県知事選挙に立候補した田中康夫がネットを活動に採り入れようとしている。けれども、日本は選挙の規制が厳しく、ネットの活用が制約されている。現状に落胆しながらも、規制が緩和されれば、アメリカのように、ネットによって日本にも新しい民主主義が生まれると期待される。80年代に選挙権を得た佐藤清文という文芸批評家もその一人である。彼は98年頃からそんなことをウェブで非常に楽観的に主張している。

     

     しかし、その予想は外れる。日本のネットには建設的な政治議論以上に、誹謗中傷や根も葉もない噂、恣意的な価値判断、無責任な極論、偏見に満ちた排他的なジンゴイズムなどグロテスクな言説が勢力を伸ばす。それはそもそもネットの理念に反しており、存在意義さえ疑わせるもであったが、当人たちにはそうした自覚もない。ネットは匿名性が高いから、攻撃しても反撃しにくいだろうと言いたい放題だ。ユーザー以外からは2ちゃんねるを代表に醜悪とも害悪とも評される有様である。

     

     インターネットは社会的インフラである。インフラには、交通インフラであれば移動を容易にするように、参加のハードルを下げる機能がある。ネット上の現象の多くは、それならではではない。なくとも起きる事象を増幅したものである。インターネットの情報は玉石混淆だと言うけれども、各種の陰謀論が刊行されているように、出版物も同様である。ネットが示すのは現実世界の拡大された姿である。

     

     ジェネレーションXが展開したネットによる民主主義はアメリカの政治文化の増幅された光景である。幼い頃から政治に関心を持ち、周囲と議論を積み、政治家や行政との直接的対話やタウンミーティングに参加する。そうした文化がネットによって拡張したのがジェネレーションXの活動であって、まったくの無から生まれたわけではない。

     

     実際、その後の米国の政治家のネット利用も従来の活動の延長にとどまっている。身近さを印象づけようとツイッターで支持者に近況報告したり、記者からの質問がないユーチューブで意見表明したり、好感度を上げるためにフェイスブックで写真やコメントを公開したりしている。国防総省がゲーミフィケーションを利用しているのと比べて、ならではの手法というわけでもないが、そこにはネットの影響力をバカにできないという思惑が透けて見える。二大政党はネットから収集できるデータを解析して対策を練り、選挙の際の支持の拡大につなげようとしている。

     

     あのグロテスクな床屋談義は日本の政治文化の増幅された姿である。反撃してこない対象を情動的に攻撃して盛り上がる。情けなくとも、これが現状だ。

     

     今の日本は社会の組織化が未整備である。こうした状況で政治停滞が生じると、代表する者と代表される者との関係が流動的なので、国家と自分を観念論的に一体化させる風潮が生まれやすい。地域コミュニティの結びつきが強かったり、組合の組織率が高かったりすれば、構成員はそこに帰属意識を持つ。政党も安定した支持基盤となり得るので、それらとの関係を緊密にする。個人と国家との直結は起こりにくい。具体的・個別的な暮らしをよくしたいと願うのに、国家は抽象的・一般的である。

     

     日本では政治参加と言えば、投票行動くらいである。しかも、国政選挙が主で、地方選挙となると、当行率が5割に届かないことも多い。選挙キャンペーンや請願書の署名、ボイコット活動、デモ、結社・団体への参加など選挙以外の政治コミットメントは必ずしも高くない。こうした政治参加の特徴から、政治リテラシーの学習や政治的討議のトレーニングはほとんどなされていないと言える。

     

     また、投票行動だけとすると、政治について話すとしても、相手は家族や友人、知り合い程度に限定され、床屋談義の域を出ない。ある極端な考えが浮かんだとしても、さまざまな背景の人と出会い、自分の意見を言い、相手の話を聞く過程を繰り返すことで、修正されていくものだ。そうしたコミュニケーションの機会を持たないと、認識が深まらない。投票行動はマスコミや口コミの情報、実感などを頼りにしていると推察できる。有権者は政治プレーヤーから侮られることになる。

     

     政治参加は投票行動だけではない。選挙は何年かに一度行われる。これだけが政治参加だとすれば、その間はジャン=ジャック・ルソーが揶揄した通り、政治家に有権者は隷属していることになる。また、制度上の理由から世論調査等で示される民意が必ずしも選挙結果に反映されるわけではない。さらに、与党に投票したものの、政府の政策の優先順位に不満を持つこともあるだろう。結果をただ黙って受け入れるのではなく、選挙後にも政治に働きかける必要がある。選挙だけで民主主義がうまく機能するわけではない。

     

     中には、間接民主主義を捨て、普及したネットを使って直接民主主義に移行すべきだという意見もあるが、これは極論である。ネットは現実を増幅させる。既存の民主主義を補完・拡充して効果的にすることに意義がある。人々のレベル以上のことをネットに期待するのは過大評価だ。民主主義が何であり、その手続きを理解しているが、政治リテラシーや議論のトレーニングがないから、それをうまく利活用できない。日本ではこうした内実の伴わない現象が起きる。日本は世界有数のブロードバンド・ネットワークを持っていながら、その利活用の点ではお寒い状況である。直接民主主義と言っても、そもそもわれわれはそんなに賢くはない。ある状況に置かれると、情動にかられ、冷静な判断を失い、大勢に流されてしまう。

     

     この実情では、インターネットが入ってきても、新しい民主主義構築のツールとはなり得ない。グロテスクな床屋談義を招いたとしても不思議ではない。

     

     その状況に変化が見えたのが311である。死者・行方不明者2万人、避難者10数満人をもたらした未曾有鵜の災害・事故により、市民は「自立・分散・協調」の意識を強くする。被災地の復興は遅々として進まず、フクシマは現在も進行中である。ネットで情報を共有し、デモに参加、請願署名にも加わり、意見聴取会にも足を運ぶ。市民が政治を変える際に、ネットは手助けになっている。

     

     政治参加の意義はそれによって市民と行政、政治家、専門家の信頼関係が強化されるからである。フクシマの情報提供の際の噴出したのが政府や専門家に対する市民の不信感である。どんなに科学的に妥当であっても、信用できない人が言えば、信じることはできない。現代社会には政治家も役人も専門家も必要である。ただ、市民との間の信頼感が十分ではない。直接民主制論議が巻き起こるのもこうした既成政治への不信感が一因だろう。

     

     極論は多様なコミュニケーションのフィードバックによって修正される。政治参加が促進されれば、それぞれのプレーヤーの偏りを対話を通じて補正し、信頼関係が強まり、コンセンサスに到達する。信頼感は実際に対話して初めて築けるものだ。ネットはそのための情報の共有や交流の機会のチャンネルを増やすことができ、参加のハードルを下げられる。そこにネットによる新たな民主主義の可能性がある。インターネットは、改めて言うまでもなく、ネットワークである。

     

     領土問題をめぐってまたグロテスクな床屋談義が伸長したが、ネット上が311以前に回帰してはいない。確かに、政治リテラシーや議論のトレーニングが不十分で、ネットでの政治議論は全般的に粗雑・未熟である。ソーシャル・メディアの登場は政治的意見・感想の表明の敷居を下げている。イッターのつぶやきを統計処理して分析することである時間帯のトレンドを知ることができる。しかし、それは政治に関する認識の質を表わしているわけではない。痩せた政治土壌を少しずつ豊かに育んでいくほかない。

     

     検索すると、若者が主催する各種の政治・経済・社会問題に関する建設的な提案や冷静な情報提供をするサイトを発見する。若い世代がインターネットの理念に立ち返り、その上で新しい民主主義構築のためのツールとして利活用しようとしている。彼らはネットによる政治扇動に対する健康的対抗策も講じている。そんな若者がきっと新たな民主主義のネットワークを拡大していくだろう。今時の若けぇ者は捨てたもんじゃない。

    〈了〉



    電子書籍と学校図書館

    • 2012.08.08 Wednesday
    • 03:25
     

    電子書籍と学校図書館

    Seibun Satow

    Aug, 05. 2012

     

    「世界を理解するには、それを組み立ててみなければなりません。それも一回ではなく、三回組み立てねばなりません。最初は筋肉を使って、次にヴィジョンによって、そして最後に、目の前の現実を超越させてくれるシンボルによって、世界を組み立てるのです」。

    アラン・ケイ『教育技術における学習と教育の対立』

     

     「灯火親しむべし」といかない季節であるが、マスメディア上で電子書籍の話題は熱く語られている。ほぼ毎日と言ってよいけれど、まだ物珍しさから日常へとは至っていない。市場規模や事業連携、リーダーをめぐるも現状と将来性が多い。産業から電子書籍を見がちで、それを必要としている場面への眼差しは数少ない。

     

     学校図書館は電子書籍を最も求めている領域の一つである。今日の教育は学校教育から生涯学習までと幅広い。学習に書籍は欠かせない。学術研究から情操教育まで用途はさまざまである。図書館はその要求に応えなければならないが、なかなか難しい。

     

     遠隔地に住む人が図書館を利用するのは容易ではない。放送大学を始め通信制教育を受ける機会は格段に増したが、印刷教材だけでは不十分である。けれども、学習に必要な書籍が揃った図書館が近所にあるとは限らない。意欲の点で、生涯学習の学生は一般よりも非常に高い。それが読書環境をめぐる地域間格差によってそがれるのは、教育の意義を揺るがしかねない。

     

     また、すべての図書館が同じように蔵書を拡充することはスペース・予算上の制約がある。被災地域の学校図書館を中央大学付属中等・高等学校のレベルにすることは不可能である。図書館にとって、蔵書数は非常に重要である。それは学術研究のためだけではない。子どもたちに読書の楽しみを体感してもらう目的もある。図書館にある書籍は読まなければならないと言うよりも、読んだ方がいいと思われるものである。十分な選択肢を用意していなければ、子どもたちに読書の楽しみがわかない恐れがある。

     

     しかも、ある書籍を誰かが借りている間、他の人がそれを読むことはできない。図書館によってはリクエストが多い、もしくは授業の副教材の書籍を複数所蔵しているケースもあるが。そういった本は需要過多であるので、待たないと借りられないのが普通である。また、絶版ないし品切れの書籍となると、買い増しはできないし、コピーを繰り返せば貴重な蔵書が痛む。加えて、百科事典のような館内でのみ利用される書籍であっても、排他性の事情は同じだ。

     

     電子書籍はこれらの問題を解決できる。ネットワーク化された図書館がコンテンツを用意し、生徒・学生が端末で接続して、必要な書籍を閲覧する。これなら、遠隔地に居住していても必要に応じて本を読めるし、小規模の図書館であっても論理上蔵書数を増やせるし、同時に多人数が同じ本を利用できる。電子書籍はモバイルな図書館である。

     

     電子書籍の図書館としての活用はインターネットの理念「自立・分散・協調」に非常に即している。ネットを通じた新たなサービス・商品の普及は、この理念にどれだけ適合しているかで占うことができる。この理念を実現しようとするものがインターネットから浸透する。

     

     情報科学者のアラン・ケイは、グーテンベルクの印刷術の歴史的意義を書物のモバイル化だと主張する。彼は、『ともに未来を発明しよう』において、グーテンベルクの活版印刷機が登場したときに、もし市場調査をしたとしたら、浸透しないと結論づけただろうと言っている。印刷機が貴重であるため、印刷物は高価であり、写生本に太刀打ちできない。そもそも識字率が低く、しかも一部のエリート層にとって議論すべき課題はキリスト教に限定されている以上、印刷術は普及しないというわけだ。

     

     しかし、アラン・ケイは、アルダス・マニュティウスとマルティン・ルターがこの状況を一新したと指摘する。前者は聖書以外の利用方法を考案し、書物の小型化に成功、携帯を可能にしている。また、後者は信者が聖書を理解するためには、自分自身で読む必要があると考え、印刷物を自己解釈メディアとして位置づける。二人は印刷術をモバイルというヴィジョンから認識している。

     

     こうした歴史を踏まえ、アラン・ケイは、『パーソナル・ダイナミック・メディア』において、コンピュータをモバイルから捉え直している。未来のコンピュータはA4サイズ程度の片手で持てるくらいに小型化され、持ち運べる図書館であり、美術館であり、博物館であり、工房であるだろと予言する。電子書籍は、確かに、アラン・ケイのヴィジョンの実現化の一つである。

     

     余談ながら、19世紀のアメリカでは、紙幣がモバイル博物館として期待された時期がある。その頃、田舎に住む農民は美術品など見たことがない。世界の近代化の最先端を切り開くん合衆国の国民がこれではいけない。彼らを啓蒙するために、1896年、連邦政府はアメリカの歴史や芸術の象徴的イラストを刷り込んだ銀の兌換紙幣を発行している。これは教育用紙幣ということで、「エデュケーショナル・シリーズ(The Educational Series)」と呼ばれている。

     

     電子書籍が普及すれば、図書館や司書が不要になるわけではない。多種多様な背表紙を見ているだけで、読んでみたいと思わせることもある。研究に必要な書籍と偶然めぐり合うことも少なくない。また、さまざまな利用者のニーズに豊富な知識と経験で応えるガイドがいなければ、本の世界に迷ってしまう。映画『ライブラリアン』のフリン・カーソンのような人物とも会ってみたいものだ。さらに、図書館は出会いやコミュニケーションの場でもある。電子書籍は教育上の機会の平等に寄与するのであって、読書の楽しみを効率性の観点から奪うものではない。

     

     電子書籍について語られる際に、見落とされる点がまだある。その一つが読書のスタイルである。

     

     活版印刷は読書の姿を変えている。それかで声を上げて読むこと、すなわち音読や素読、読誦が一般的である。また、書物を書き写すのも読書の一種である。読書は筋肉を使う作業を通じた知識の身体化を指す。しかし、この習慣はグーテンベルク革命が衰えさせる。活版印刷は書物を個人で所有することを可能にする。自由で平等な個人が自窒して考えるという近代の理念、すなわち個人主義とも相まって、黙読が読書の通常の姿となる。識字率も上がり、大人には誰かに読んでもらう必要はなくなる。一人で、黙って、活字を目で追う内面的作業が読書であるという共通理解が人々の間に形成される。

     

     電子書籍はおそらくこうした読書の様相を変容させるだろう。確かに、リーダーに向かっている姿は黙読が依然として主流である。しかし、活字書籍についても電子メールによって感想を誰かに伝えたり、ブログで意見を発表したり、SNSのコミュニティに参加して交流したり、二次作品を表わしたりしている。「協読」とも呼べるスタイルが定着しつつある。

     

     インターネットは自立・分散・協調という新しい公共性をもたらしつつある。読書は、それを受けて、個人主義的・内面的作業でなくなっていくに違いない。印刷時代と違い、書物は共有するものだ。自立・分散・協調のネットワークの中で読書は象徴的行為として行われる。コンピュータならびにインターネットは、だからこそ不安を覚えるのだが、脳の拡大でもある。電子書籍端末は読むだけでなく、書き、音声出入力に対応、視聴し、表現して、送受信するメディアである。電子書籍はそうした内外のニューロネットワークのアクセス・ポイントである。「ニューロリーディング」が促進されるであろう。

     

     読書に新たな楽しみが加わる。それが電子書籍の真の意義である。

    〈了〉

    参照文献

    浜野保樹監、『アラン・ケイ』、鶴岡雄二訳、アスキー出版局、1992


    「タクト」の時代

    • 2012.07.28 Saturday
    • 15:44
     コミュニケーション能力の時代?
    Seibun Satow
    Jul, 27. 2012

    「千里馬常有而伯樂不常有」。
    『韓文公雑説下』

     毎年、経団連は企業を対象に新卒採用の選考で重視する点についてアンケート調査を行っている。2011年のトップは「コミュニケーション能力」である。これは、実は、8年連続の結果である。こうした情報により、就職活動に臨む学生の間でそれが注目されている。ネット上にもこの能力の認定や検定の講座が溢れている。

     能力は時代や社会によって要求ないし強制されるものだ。70年代、和文タイプの能力が事務職に求められたが、ワープロの普及した今日では見向きもされない。また、戦前の台湾で生まれ育った本省人は日本語を話せる。日本の植民地だったからである。

     「コミュニケーション能力」は今の日本社会が要請しているものであろう。2004年、厚生労働省が「コミュニケーション能力」を「就職基礎能力」の一つに挙げている。ただ、この「コミュニケーション」は定義が不明瞭で、何を指しているのか曖昧だ。ろくに定義もされないまま、無内容な言葉が流通することが日本ではままある。今回もそういう気分がある。そもそもコミュニケーションは幅広い概念である。その中には非言語コミュニケーションもあれば、アフォーダンスもある。

     コミュニケーション能力認定に「神経言語プログラミング(NLP)」を応用したカリキュラムを用いている講座もある。これはアンカリングやリフレーミングなど認知心理学の成果を採り入れたものである。この場合、コミュニケーション能力は、自分の意見を伝え、相手を説得する技術と捉えられている。

     これはコミュニケーション能力と言うよりも、「レトリック」、すなわち「弁論術」と呼ぶ方が適切である。レトリックは古典時代から研究されてきた由緒正しい学問で、近代に至るまで重要な教育科目とされていた自由七学科にも含まれている。自由七科は三つの「アート」、すなわち「学芸」と四つの「ディシプリン」、すなわち「学科」に分類される。トリウィウムは文法学・弁証論・修辞学、クワドリウィウムは幾何学・算術・天文学・音楽である。前者が同時代とは異なる可能性がある偶有的な事柄を扱うのに対し、後者はそれがあり得ない普遍的な事柄を扱う。

     レトリックの学習熱が高まっているとしたら、教育の伝統から鑑みて、決して論うべきではない。レトリックは人の心を動かす生きる知恵である。けれども、ソフィストが示しているように、しばしば口先の技術に陥りやすい。そこで、徳の裏打ちをするために、弁証論が必要である。他者との問答を通じて真理を探究する哲学が伴って、レトリックは内実のあるものとなる。今のレトリック向上の動向を問うとしたらの、ソフィストのマスプロに陥っていないかどうかという点だろう。

     レトリックも能力である以上、盛衰がある。第二次世界大戦直後の欧州、特に西ドイツで、レトリックが教育現場から追放されている。理由はファシズムである。ファシストやナチスはアジテーションとプロパガダなどでレトリックを駆使し、大衆を扇動している。現在では、ファシズムの手口を知ることが免疫につながるとして、レトリックを批判的に学ぶことが現場で復活している。加えて、メディア・リテラシーの観点からも、教育の対象になっている。

     また、第一次世界大戦後、日本でレトリックの必要性が強く説かれている。ベルサイユ講和会議に参加した日本代表団が無口だったことから、雄弁術の運動が国内で沸き起こる。中野正剛や永井柳太郎、松岡洋介などが雄弁家として頭角を現わしている。

     もっとも、今巷で言われている「コミュニケーション能力」はレトリックだけを指していないようだ。2012年7月21日付『朝日新聞be』において「『コミュニケーション能力』自信ある?」というアンケート調査の結果が掲載されている。そこで挙げられているコミュニケーション能力の内容は、レトリックに相当するもの以外に、理解力や意思疎通、協調性、共感力などである。それらをまとめるなら、この「コミュニケーション能力」は「交際術」と呼ぶ方がふさわしい。

     交際術も能力の一つであるから、歴史を振り返ると、流行した時期が見出せる。1788年、ドイツのアドルフ・F・V・クニッゲが『人間交際術』を刊行し、大ベストセラーになっている。18世紀後半、交際術が今の「コミュニケーション能力」のように人々の関心を集めている。

     近代以前、親父の仕事を息子が継ぐのが当たり前で、生まれた共同体で生涯を終えるものが大半である。交友関係も顔見知りがほとんど、お互いによくわかっている。ところが、近代に入ると、この状況が変容する。職業選択や移動の自由が認められ、見知らぬ人と出会う機会が増す。社会がコミュニティの集合からネットワーク化する。漠とした社会で、新たな事態に対処したらいいかを人々は求めるようになる。

     そんな時代背景の下で出版されたのが『人間交際術』である。見知らぬ人への声のかけ方や初対面の時の作法、自分を相手に売りこむ方法、ナンパ術などが記されている。それらはまさに今日の「コミュニケーション能力」と重なる。

     今、巷で「コミュニケーション能力」が関心を集めるのも、グローバル化の進展に伴い、異文化を含めた見知らぬ人と出会う機会が増えとことや第三次産業の比率の増大などが理由だろう。増加する未知の事態への対処法を「コミュニケーション能力」に求めている。

     実は、『人間交際術』が刊行された2年後の1790年、イマヌエル・カントが『判断力批判』の中で技術と理論を橋渡しする「判断力」を「論理的タクト」と呼んでいる。日本語で指揮棒を「タクト」と言うが、同じ単語である。ただ、ドイツ語では、他に、人間関係において相手の感情を察する繊細さや調和のとれたリズミカルさといった意味がある。カントは「タクト」を綱渡りの曲芸に譬え、技芸で働く知恵や状況の真っただ中で使われる技だと言っている。

     ヨハン・フリードリヒ・ヘルバルトは、カントの考察を受け、それを教育学に援用、養成法に取り組んでいる。しかし、タクトの達人がいたとしても、それはその人の経験や個性と結びついており、定量化や一般化が難しい。できることと言えば、核心となる諸要素の関係を見通しよく記した地図を作製することしかない。初心者はそれを片手に未知の世界を逍遥し、自らの関心や観点、すなわち「思考圏」に応じた独自の地図を描いていく。ヘルバルトはそう主張する。タクトの修練は「車輪の再発明」でもあるだろう。

     交際術はこのタクトのことである。書物に記されたことを模倣してみる。うまくいけば、そのまま蓄積され、そうでない場合は修正して再度試されるか、廃棄される。模倣の過程そのものが経験として知的財産となる。

     タクトは「力」と言うより、「才」である。母親が子どもの様子から学校での状況を察する。教師が生徒の様子からクラスの状態を把握する。注意深く観察し、気づいた情報から異変を察知することもタクトの一種である。タクトを磨く場面は至るところにある。いわゆる「コミュニケーション能力」は「タクト」のことであり、向上させようと思ったら、それを「力」ではなく、「才」だと認知して遍在する機会を無駄にしなければよい。「能力」は教える側にとって便利なもので、学ぶもののための考えではない。

     参考にする話はいくらでもある。ロッテ・オリオンズに在籍していた落合博満は、ある日、同僚のㇾロン・リーの体調が悪そうだと稲尾和久監督に進言する。稲尾は日本プロ野球史上最強の投手であり、「神様仏様稲尾様」と尊敬されたタクトの達人である。その人をしても主軸の異変に気づいていない。日本人に黒人の顔色の違いがわかるものかと監督が理由を尋ねると、三冠王はこう答えている。「肌のつやがいつもより悪いんですよ」。
    〈了〉
    参照文献
    鈴木晶子、『イマヌエル・カントの葬列―教育的眼差しの彼方へ』、春秋社、2006年
    アドルフ・F・V・クニッゲ、『人間交際術』、笠原賢介他訳、講談社学術文庫、1993年
    佐藤清文、『科学コミュニケーションと感情知』、2012年
    http://www.geocities.jp/hpcriticism/oc/scek.html
    佐藤清文、『車輪の再発明』、2012年
    http://www.geocities.jp/hpcriticism/oc/rw.html


    車輪の再発明

    • 2012.07.25 Wednesday
    • 06:51
     車輪の再発明
    Seibun Satow
    Jul, 24. 2012

    「うん、これでよし。へたばらないようにするんだよ。さもないと車輪の下に圧しつぶされてしまうよ」。
    ヘルマン・ヘッセ『車輪の下』

     IT業界で「車輪の再発明(Reinventing the Wheel)」という慣用句がしばしば用いられる。これは、すでに広く定着した技術や解決法を認知しないまま、あるいは無視して、同様のものを一から再び発明することを意味する。新たな付加価値のないソフトをコストをかけて開発することは無駄でしかない。そんなものは既存のコードを利用すればいい。諸般の事情から車輪の再発明は起きてしまうが、この慣用句には否定的なニュアンスがある。

     けれども、教育学の見地からは、車輪の再発明は非常に有意義な方法である。これを採り入れたのがジョン・デューイの「進歩主義教育(Progressive Education)」である。

     デューイは、1896年、シカゴ大学に新しい教育理論を実践する実験小学校を創設する。その模様を『学校と社会』(1899)という報告書で発表している。当時のアメリカは世界最大の工業国へと発展し、そうした急速な近代化に伴い、社会が激変している。デューイは、こういった時代背景の下、学校に「新しい社会」を求める。そこは「民主主義の萌芽」を育てる「新しい共同体」である。デューイ・スクールは8年間で閉鎖を余儀なくされたが、体験学習を始め、20世紀の教育に多大な影響を与えている。

     現代社会では、家庭生活や地域活動、産業の労働、大学の知的探求などそれぞれがバラバラになりつつある。それらを連動する多様な経験を組織化する必要があるが、その機能を果たすのが学校である。民主主義社会を実現する個人と共同体を育てる基礎となるのが学校であり、子どもの個性的・探究的・表現的な活動がそれをもたらす。従来のカリキュラムは教師のためにあったが、「児童中心主義(Child-Centered Education)」へと変更しなければならない。

     そう考えたデューイは、座学中心だった教育現場に、創造的な「手仕事(Occupation)」を通じた知的探求を導入する。かつては衣服もろうそくも家庭でつくっていたから、人々はそういった知識も技術も有している。既存・既製のものを利用するだけでは不十分である。その技術や知識が秘めている意味を理解する必要がある。すでに定着したものをあえて一からつくり、その結果に至る過程を頭だけでなく、身体でも経験する。暗黙知の対象を明示化し、過程による想像力の向上が促される。対象は孤立してはおらず、知識のネットワークの中にあることが認識される。その時、理解は深くかつ広くなる。再発明の意義は、デューイにおいて、このように積極的に認められる。

     進歩主義教育を今日の文脈で読み替えると、「リテラシー教育」になろう。各種の技術や知識が専門化・細分化・高度化しているため、事物や事柄がブラックボックス化している。専門家であっても、自分の領域から離れると、チンプンカンプンである。近代の理念は自由で平等な個人が自立して考えることだが、実際には、依存が強まっている。民主主義にとっても、それは危うい。よりよい社会を築くためには、市民のエンパワメントが不可欠である。完全に自立した思考は、もちろん、あり得ない。大切なのは知識がネットワークを構成していて、自らを含めた思考はその関係の中にあることを認識することだ。リテラシーは知識のネットワークの文法であり、その学習が現代では必要とされている。

     と同時に、専門家にとってもリテラシーの確認は自らを相対化して、自分の認識を見直す契機も与えてくれる。このことは複雑に考えなくてもよい。日本語のネイティブ・スピーカーは母語を自分の判断だけで使えている。けれども、その理由を説明できないことが少なくない。もし理屈が文法からわかったなら、それを発展的に用いることができるだろう。暗黙知を明示化することで、認識の発展がもたらされる。

     車輪の再発明は暗黙知の明示化による認識の発展とも言い換えられる。それはリテラシーの向上のために効果的であり、確かに、プログレッシブだ。車輪の再発明に挑むものは、それがないのだから、車輪の下で圧しつぶされることはない。
    〈了〉
    参照文献
    佐藤学、『改訂版教育の方法』、放送大学教育振興会、2004年
    ヘルマン・ヘッセ、『車輪の下』、高橋健二訳、新潮文庫、1951年

    消費税と公共事業

    • 2012.07.19 Thursday
    • 05:31
     消費税と公共事業
    Seibun Satow
    Jul, 13. 2012

    「取り道あれば抜け道あり」。

     税にはそれぞれ作用がある。消費税は消費を抑制し、貯蓄を増やす効果がある。少子高齢化が進めば、国全体の貯蓄は減少する。貯蓄を増やすために消費税の税率を上げることは有効である。

     不十分と言われる現行の制度でさえ、社会保障のためのさらなる財源が不可欠である。社会保障関連産業は労働集約型で、スケール・メリットがあまりない。社会保障と税のいずれにも改革が必須であるのは確かだ。

     ビルトインスタビライザーを始め、社会保障と税を一体として考えるのは近代の財政の一つの特徴である。消費税の機能を考慮すると、社会保障と関連させた理論を構築し、新たな制度を示すことは有意義である。けれども、今回の「社会保障と税の一体改革」には理論の提示がなく、その名に値しない。

     にもかかわらず、消費税増税法案にジャーナリストや学者、エコノミストらから一定の評価があるのは、財政再建につながるのではないかと期待しているからである。それにしても、財政再建の道筋も提示されていないのに、今回の法案に好意的とはずいぶん人がいい。共有する理論が示されていないのに、賛同するのは自らの暗黙の前提に無自覚な証である。

     過去二回の消費税の増税はいずれも景気がよい時期に実施されている。消費税には消費の抑制効果があり、短期的に景気を減退させる。増税に踏み切るのであれば、景気のよかった小泉純一郎内閣の時であったが、彼はそうしなかったおかげで、今でも高い人気を持っている。

     もっとも、消費税の導入以後、財政再建どころか、赤字が増大している。消費税による歳入増が財政の健全化につながるとは限らない。財政再建には歳入を増やすだけでなく、歳出を減らすことも必要だ。日本は伝統的に小さい政府である。先進主要国と比較して、公務員数も少なく、社会保障費も小さい。にもかかわらず、世界で最悪級の財政赤字を抱える最大の理由は、公共投資の大きさである。平成不況期に、繰り返された景気対策としての公共事業が債務を急膨張させている。

     先進主要国の中で、日本の社会保障の規模はアメリカと並んで小さい。ただ、公共事業費が社会保障費を上回るのは日本だけである。全国保健医団体連合会の『グラフでみるこれからの医療』(2006)によると、米英独仏の4カ国が対GDP比平均で公共事業2.0%、社会保障7.7%であるのに対し、日本は公共事業6.0%、社会保障3.4%である。しかも、日本の公共事業費は3279億ドルで、米英独仏にイタリアとカナダを加えた総額2682億ドルよりも多い。なお、この国際比較には「一般政府固定資産形成」という土地代と修繕代を除いたOECDの資料を用いている。

     公共投資には財源が必要だが、それを税で賄った場合、可処分所得を減少させるので、民間貯蓄が減る。そのため、供給面から長期的な経済成長が抑制される。国債を原資に、後の経済成長による税収の増加で公共投資を返済する手法を日本政府は従来採用している。

     借金をして公共投資を行い、その返済見込みを考える際に、税収弾性値が有効である。これは名目経済成長率が1%増えた時に税収が何%伸びるかという倍数である。1〜2倍の間と見るが、現在の日本では1.1倍が妥当とされている。赤字国債発行が復活した94年度の一般会計税収は51兆円で、GDP成長率が1.5%である。にもかかわらず、新規国債発行額16.5兆円、赤字国債発行額4.1兆円となっている。以降も税収弾性値を無視した国債発行が続く。景気対策として財政出動をしても、すればするほど赤字が膨らむ計算になる。

     確かに、財政規模を大きくすると、成長抑制だけでなく、税収増による公的資本蓄積に伴い、成長が刺激される。けれども、財政規模が小さい場合、財政出動は成長を促すが、大きくなるにつれ、その効果が失われる。

     12年6月4日、自民党は「国土強靭化法案」を国会に提出、防災のための公共事業として、今後10年間で総額200兆円規模をインフラ整備に投入することを提言している。また、公明党も、7月10日、ほぼ同様の理由で10年間に100兆円を投入する「防災・減殺ニューディール」を公表している。消費税の増税を政府に要求しながら、一方でバラマキをするつもりだというわけだ。

     税収弾性値をから考えると、両党の提案は財政赤字を膨らませるだけである。GDPを500兆円、税収を40兆円、大甘に成長率4%の税収弾性値2倍と仮定して計算してみよう。税収は8%増の3.2兆円、不足分は累積赤字になる。実際には91年〜11年の間のGDPの年平均成長率は0.8%で、4%越えはない。年20兆円や年10兆円の10年間継続の財政出動は狂気の沙汰である。合意した両党に財政再建も社会保障制度改革もする気がない。責任能力のない政党は政権に就くべきではない。

     実は、1970年代から公共事業費が所得再配分機能を果たしている。広井良典千葉大教授はそれを「公共事業型社会保障」と呼んでいる。公共投資と県民所得に強い相関関係が見られる。公共投資が減ると、県民所得も減少する。

     しかし、これは健全ではない。公共事業が地方経済の一部に組みこまれ、依存体質から抜け出せない。公共事業による社会保障政策は、特定産業の保護につながり、国際競争力のある産業への労働と資本の移動を滞らせている。また、景気優先の公共事業の乱発は環境破壊を招き、経済的のみならず、環境的な債務を後世に残しかねない。さらに、社会保障制度にはセーフティー・ネットの機能もあるが、公共投資にはそれがない。

     しかも、現在、各種インフラの老朽化が全国的に顕在化している。この事態はすでにアメリカが経験しており、当然、日本も備えておく必要がある。ところが、これだけ公共事業費を使いながら、不確実な将来に向けた新規事業が優先され、現時点で確実に必要とされている老朽インフラの補修は後回しにされている。

     率直に言って、現在の日本の財政状況ではケインズ主義的な景気対策はできない。公共事業の支出は財政悪化につながるだけである。09年の政権交代後、公共投資見直しの動きが政府・与党から起きたが、思った以上の成果を上げていない。提言が骨抜きにされたり、無視されたりしたケースも含めて、これまでの経緯を優先する反論が霞が関を含めた既得権益者から発せられている。ここまで来たら継続した方が安上がりだという主張さえ見られる。

     既成事実を積み上げて泣き寝入りを狙う。これが従来の行政の手法である。ところが、それは選択肢を奪ってしまう。行き詰った際に、他の道がなくなり、苦境にはまりこむ。行政は計画を立て、それが実現するための条件を探る。けれども、条件が満たされても、成功しないケースが少なくない。と言うのも、思考には暗黙の前提があり、それを見逃しているからだ。そのため、選択肢を残しておく必要がある。それを消す既成事実の手法は、往々にして、袋小路を招く。暗黙の前提を明示化できないとしたら、自分たちがしていることを実際にはわかっていない。

     無駄を減らせば、増税しなくても財政再建が可能だと主張しているわけではない。暗黙の前提を直視しない既成事実の手法が財政の危機的状況をもたらした一因であり、これを改めない限り、打開が難しい。中央地方を問わず、日本の政治は政策における暗黙の前提を顕在化させるシステムに乏しい。それに無自覚ですまされている。増税にしろ、制度設計にしろ、予算編成にしろ、その暗黙の前提を明示化することなしに、将来への展望はあり得ない。
    〈了〉
    参照文献
    広井良典、『日本の社会保障』、岩波新書、1999年
    全国保健医団体連合会、『グラフでみるこれからの医療』、2006年
    http://hodanren.doc-net.or.jp/kenkou/gkhtml/gkenter.html


    衆知としての日本国憲法

    • 2012.05.05 Saturday
    • 13:07
     

    衆知としての日本国憲法

    Seibun Satow

    May. 06. 2012

     

    「光りかがやく 新憲法 ソレ

    チョンホイナ ハ チョンホイナ

    うれしじゃないか ないか

    チョンホイナ」

    サトウハチロー『憲法音頭』

     

     ワシントン大学教授デヴィッド・ロー(David S. Law)とヴァージニア大学准教授ミラ・ヴァースティーグ(Mila Versteeg)は、2012年、『ニューヨーク大学ロー・レビュー(New York University Law Review)87号に「没落する合衆国憲法の影響(The Declining Influence of the United States Constitution)」と題する論文を発表する。これは、1946年から2006年までの期間に制定ないし改正された世界188か国の憲法を調べ、権利とその保障に関する項目を比較・分析した研究である。

     

     この比較法学の論文の主旨は、世界の民主主義における合衆国憲法の影響力の没落という現状の説明である。最古の現役の成文憲法であり、長期に亘って、近代民主主義憲法のモデルとされてきたが、1980年以降、世界の流れから取り残され、ガラパゴス化している。

     

     社会の変化に連れ、新しい権利とその保障が生まれて、それが明文化される。同論文では、年代別に、どの権利が憲法上に位置づけられているかが世界全体の比率として記されている。例えば、「信教の自由」は1946年では世界の憲法の81%が明文化し、1976年には88%、2006年に97%へと拡大している。権利にも国際的な長期的トレンドが見られる。

     

     合衆国憲法には、女性の権利や移動の自由、教育を受ける権利、労働組合結成の権利など今では世界の7割以上の憲法に記された権利保障がない。他方、世界の2%の憲法にしか見られない武装する権利が現存している。合衆国憲法はこのようにガラパゴス化している。

     

     合衆国連邦最高裁判事ルース・ギンズバーグ(Ruth Bader Ginsburg)は、20121月、エジプトを訪問し、地元TVのアル・ハヤト(Al Hayat)とのインタビューにこう答えている。「もし私が2012年に新たな憲法を起草するなら、合衆国憲法を参考にしない(I would not look to the US Constitution if I were drafting a constitution in the year 2012)」。同判事は、合衆国よりも、1982年に権利章典を定めたカナダの憲法を勧めている。今から制定するのであれば、世界的潮流に則り、現代的な権利と保障を組み入れた憲法を参考にする方がよいというわけだ。

     

     なお、これはあくまでも権利と保障が憲法上に位置付けられているかどうかであって、実際の運用の有無ではない。

     

     この論文の主旨とは別に、日本国憲法の国際比較の結果が極めて興味深い。日本国憲法は、現在世界で主流とされている権利のランキング19位までをすべて満たしている。これは先に言及したカナダをも上回る。改憲論の中に時代遅れになったという意見があるが、これはまったくの思いこみにすぎない。以下に20位までを挙げておこう。

     

    1信教の自由

    2報道・表現の自由

    3平等の保証

    4私的財産権

    5プライバシー権

    6不当逮捕・拘束の禁止

    7集会の権利

    8団結権

    9女性の権利

    10移動の自由

    11裁判を受ける権利

    12拷問の禁止

    13投票権

    14労働権

    15教育を受ける権利

    16違憲立法審査権

    17遡及処罰の禁止

    18身体的権利

    19生活圏

    20推定無罪

     

     満たせなかったランキング20位が推定無罪というのは、最近のニュースを思い出すと、できすぎた話だ。

     

     なお、よく論議の対象となる九条は、比較法学の観点からは、特徴的ではない。この条文は、実は、第一次世界大戦後のパリ不戦条約に由来する。条約不参加だったスペインが1931年に共和国憲法の中に侵略戦争の放棄を書き記す。これが戦争放棄が憲法上に位置づけられた史上初のケースである。その後、フィリピンが戦争放棄を憲法に採用し、戦後、日本国憲法にも記される。これに類する条文は、今日、世界各国の憲法に見られ、珍しくはない。ただ、条文をどのように解釈・実践していくかは国によって異なっている。世界的に定着が拡大傾向にある概念にもかかわらず、日本国内で改定論議がしばしば起きるのも、また思いこみであるとしか言いようがない。

     

     これだけ現代的な日本国憲法であるが、他に類を見ない特徴を持っている。それは、改正されたことのない現役憲法の中で、最高齢だという点である。つまり、65年前に書かれた憲法が現代を予期していたことになる。

     

     憲法改正は、世界各国で、しばしば政争の具と化している。論議の段階ではお得意の政争の具にしてしまっているが、実際の改定に進まなかったことは日本政治にとって汚点を増やさずにすんだと喜ぶべきだろう。311でさえ政局に走ったことを思い出すがよい。

     

     オールディストでなおかつトレンディーという結果は驚くにあたらない。なぜなら、日本国憲法は衆知の産物だからである。

     

     「押しつけ」憲法といまだに信じている人はもうおるまい。研究者の間で、日本国憲法は日米合作が主流の学説である。まだまだ研究途上であるから、新しい発見があるとしても、この前提が覆ることはまずないと思われる。

     

     その制作過程にこそ、現行の日本国憲法の比類のない新しさがある。それは国際条約の制作過程と類似している。日本国憲法は、制作過程において、異質で多様な人たちの議論や葛藤、妥協がある。通常、憲法は国内法であるから、国内の人たちだけで論じられる。けれども、日本国憲法は外国人も参加している。GHQ、その女性職員、ワシントン、連合国11か国の代表が参加した極東委員会、昭和天皇、政治家、官僚、民間人などが討論し合い、形成されている。日本国憲法は集合知の産物である。

     

     国内には、日本国憲法につながる系譜が綿々と続いている。明治時代、自由民権運動の活動家が中心となって国内各地で私擬憲法が起草されている。非常に革新的なものが多かったが、明治憲法に反映されることはない。また、大正デモクラシーの成果も忘れてはならない。その代表者の一人である石橋湛山は植民地放棄や非武装、地方分権など数々のリベラルな提言をしている。さらに、終戦後すぐに、新たな憲法への提案が政党や民間から沸き起こっている。こうした意見や草案はGHQも英訳して参照している。現行憲法に代わる「自主」憲法制定という主張は、この長きに亘って蓄積してきた誇らしい市井の知恵を無視した言い草だ。

     

     日本国憲法の権利と保障に関する先進性は集合知によってもたらされている。女性の権利をめぐっては、GHQの女性職員が奮闘している。また、義務教育の9年制は地方の教育関係者からの要望である。多種多様な見方が加わっているから、先進さが維持されている。

     

     日本国憲法は国内外の衆知の結晶である。ウェブ2.0を先取りしている。まさに制作過程の先進さがいつまでも新しい所以である。他方、これまで提案された改正案にこの集合知の認識を加味したものはない。

     

     にもかかわらず、作家の東浩紀は、311から必要とされる新たなヴィジョンを示し、従来の護憲=改憲論争にとらわれることのない憲法試案を用意している。起草者には、法学者や経済産業省の官僚が含まれているという。東はかねてよりウェブ2.0の政治への応用を主張している。しかし、彼の私擬憲法の制作過程にはウェブ2.0の姿勢が見られない。それ以前のクライアント=サーバー・モデルそのものである。日本国憲法は、すでに述べたように、依然として先進的である。なおかつ、その体現する衆知は311において最も貢献した姿勢である。日本国憲法に新たな社会に向けたヴィジョンが具現化されている。東は、憲法もウェブ2.0も理解していないとしか言いようがない。東の企ては 映画『メガマインド』におけるタイタンの登場を思い起こさせる。

     

     国際比較をしないまま、思いこみに沿って思いつきで意見を述べたり、議論したりする。日本では、憲法に限らず、選挙制度や議員定数・歳費、地方自治など政治課題をめぐってしばしばこうした短絡さが見受けられる。比較は、それが何であり、何であり得るかを知る有効な方法である。意見を口にする前に、国際比較をして、自らの思いこみ・思い付きを相対化する必要がある。ちなみに、地方議員は、世界的に、名誉職が主流である。必要経費等を別にして、議員報酬は出ない。人口比に対する議員定数も日本より多い。

     

     日本国憲法は口語体で記されている。戦前の法令や公文書は、濁音・半濁音・句読点のない文語体で記されている。日本国憲法制定以降、法令に口語体が採用される。この口語革命は「国民の国語運動」の提案がきっかけである。同組織は、『建議』において、国民にわかりやすいように、口語体の採用や濁音・半濁音・句読点の使用、できるだけ難しい漢語を避けることなどを主張している。「今や新しい歴史の出発点にあたつて、国民に対する国家の期待をあきらかにし、国民の自覚と勇気とをふるひ起こさせる上から、この際、法令、公文書のすがたを一新することは、きはめて望ましい手だてであると信じます」。

     

     国民の国語運動のメンバーに作家の山本有三が含まれている。山本は、実際に、内閣法制局に依頼され、見本として前文を口語体で記した以下の試案を提出している。

     

     われら日本国民は真理と自由と平和とを愛する。われらは、われら及びわれらの子孫のためのみでなく、全世界の人類のために、これが研究と真実とに、こぞつて力をつくさんとするものであつて、かりそめにも少数の権力者によつて、ふたたび戦争にひきこまれることを欲しない。そこでわれらは、国会におけるわれらの正当なる代表者を通じて、主権が国民の意思にあることを宣言し、ここにこの憲法を制定する。()

     

     作家である以上、言葉から憲法を考える。この姿勢が東にはない。これを参考に、法制局の官僚が憲法草案を口語体に改めている。現行の条文を見る限り、基調の点で生かされたと言える。

     

     日本国憲法はこうした衆知の産物だからいつまで経っても新しい。参ある意味で加型民主主義を体現している。しかし、実際の日本社会がその参加型民主主義を実践してきたかと言えば、とても同意できないだろう。日本国憲法は今でも日本社会の向うべき先にいる。

    〈了〉

    参照文献

    古関彰一、『新憲法の誕生』、中公文庫、1995

    佐藤清文、『日本国憲法とその新しさ』、2007

    http://www.geocities.jp/hpcriticism/oc/ncl.html

    David S. Law & Mila Versteeg, ‘The Declining Influence of the United States Constitution’, “NYU Law Review”87, 2012

    http://whatthegovernmentcantdoforyou.com/wp-content/uploads/2012/02/ssrn-id1923556.pdf

    Junji Tachino, ‘Japan's Constitution is still one of the world's most advanced’, AJW by The Asahi Shinbun”, May, 03. 2012

    http://ajw.asahi.com/article/behind_news/social_affairs/AJ201205030054


     

    集合知で見る日本国憲法

    • 2012.05.02 Wednesday
    • 06:49
     

    日本国憲法とその新しさ

    Seibun Satow

    May. 05. 2007

     

    「憲法というのは、この国の『使い方規則』と思っている」。

    森毅『憲法は外注がよい』

     

     日本国憲法が還暦を迎える。人間だったら、日本では、赤いチャンチャンコを着て、みんなからお祝いをされるものだが、改憲を支持する人々がかつてないほど勢いづき、そんな光景は見られない。

     

     マスメディア上で、第九条を念頭に、理念と現実が乖離しているから改憲すべきだと主張している人たちが登場する。

     

     しかし、交戦権を憲法に入れようとしたところで、サンフランシスコ講和条約で日本は国際紛争の解決のために軍事力を行使しないとしているのだから、間の抜けた話だ。憲法はあくまで国内法である。国際条約以上ではない。それは、NPTに加わっているのに、核兵器の保有が可能だと口にするのと同じくらいに愚かである。

     

     こういう意見を発する人たちの顔ぶれには、イラク戦争に肯定的な見解を述べていた人が多いことに気がつく。

     

     この種の似非リアリズムほど危なっかしいものはない。国際的名声と政治的野望を求めて、状況を熟慮せず、性急に軍隊の派遣を判断し、失敗してしまうからだ。イラク戦争に突入したアメリカの指導部は、明らかに、知識と経験に乏しいくせに、専門的・批判的見解を無視している。また、先のイスラエルによるレバノン戦争も同様である。

     

     近代憲法は統治者を縛るものである。日本国憲法は国民の基本的人権を擁護するために、国家の権力的行為を規制し、国家機関にその服従を要求している。そういう制約があるから、慎重に考え、知恵を絞れるというものだ。部下に白紙委任状を持たせて、交渉に向かわせる上司はいないだろう。これは理念以前の利害の問題としてわかることである。それがわからないと指導者だとしたら、したたかさとしなやかさを欠いた未熟者と言って過言ではない。

     

     日本国憲法は近代型であり、実は、現代型も世界にはすでに登場している。ドイツの基本法がその代表例である。憲法自身が価値を主張し、国民にそれへの忠誠を求めている。これは、民主主義的な手続きに則って権力を掌握したナチズムがワイマール体制を破壊した歴史を踏まえている。ドイツの基本法は「自由で民主主義的な秩序」を価値理念と規定し、その内容を連邦憲法裁判所が解釈している。それを侵害する憲法の敵は、個人であれ、結社であれ、政党であれ、基本的権利の剥奪、解散、地位の失効が強制される。現代憲法は、自らの持つ価値を脅かす敵と戦う。

     

     現在発表されている日本国憲法の改定のアイデアには、復古調や新しい権利の追加などのが提示されているが、近代型から現代型への変換は見られない。

     

     憲法第九条は日本を護ってきた歴史的な意義がある。そのおかげで、韓国と違い、ベトナム戦争に自衛隊を派遣せずにすんでいる。サンフランシスコ講和条約を無視して、似非リアリストの言う通りに改憲し、もしイラク戦争を迎えていたら、ぞっとする。犠牲者を出し、中東での評判を落とすだけでなく、失敗の原因までアメリカから押しつけられていたところだ。ちなみに、イラクもサンフランシスコ講和条約を批准している。

     

     今時、押しつけ憲法論を信じているほど無知な人はいないだろう。第二五条の生存権は英米系の憲法観にはなく、ワイマール憲法からの影響である。これだけを見ても、その説に根拠が希薄であるのは明白だ。改憲論者の中には新たな権利の明記を目的としている人たちもいるが、それらはこの画期的な権利を超えるものではない。研究者の間で、日本国憲法は日米合作が主流の学説である。まだまだ研究途上であるから、新しい発見があるとしても、この前提が覆ることはまずないと思われる。

     

     その制作過程にこそ、現行の日本国憲法の比類のない新しさがある。それは国際条約の制作過程と類似している。日本国憲法は、その制作過程において、異質で多様な人たちの議論や葛藤、妥協がある。通常、憲法は国内法であるから、国内の人たちだけで論じられる。けれども、日本国憲法は外国人も参加している。GHQ、その女性職員、ワシントン、連合国11カ国の代表が参加した極東委員会、昭和天皇、政治家、官僚、民間人などが討論し合い、形成されている。日本国憲法は集合知の傑作だ。これらの意見の多くは明治憲法制定時には無視されただけでなく、松本草案の段階でも黙殺されている。これほどの独自性を持った憲法はない。

     

     いわゆる芦田修正によって、憲法第九条は、自衛のための軍備であるならば、実際に持つかどうかはともかく、保持が可能であると解釈できるようになっている。これはすでに極東委員会も気づいている。そこで、2007429日に放映されたNHKの『日本国憲法誕生』でも言及されていたが、ソ連代表が文民統制の条項を憲法に盛りこむことを提案し、憲法第六六条二項にそれが明記される。

     

     自民党の予定している憲法のお粗末さがよく示している通り、ある方向からだけ見られたものはどうしても偏ってしまう。改憲の支持者でも、まさかあの反動的な草案を支持してはいないだろう。今、物事をよくしていくために、多様で異質な人たちの目に触れさせることが欠かせない。日本国憲法はその先駆けである。Web2.0をはるかに先取りしている。

     

     条文以前に、この新しさを超える新しさを提起できないのであれば、後退以外の何ものでもないのだから、変えるべきではない。

     

     今後さらにデジタル技術が進展し、それによる新たな認識から憲法改定試案が提起されるかもしれない。しかし、集合知の成果という日本国憲法の新しさを実践上で超えることはないに違いない。日本国憲法はある歴史的・社会的条件が生み出せた奇跡だからだ。この集合知が日本国憲法が体現する社会像である。

     

     グローバル化する時代にあって、外国人の居住も多くなり、環境問題やネットは国境に縛られるものではない。また、かつては無視もしくは軽視されてきた先住民の権利も世界的に認められるようになってきている。先住民の権利は国民の権利に縛られない。アジアには多種多様な先住民族がいる。一国ではなく、多国間の間で考えられていくべき課題が山積みである。

     

     こうした状況を考慮する限り、改憲を論じるよりも、むしろ、日本国憲法の制作過程を参考にして、アジア共同体の憲法を考える方がはるかに建設的である。日本国憲法の新しさの意義は依然として失われていない。

     

     にもかかわらず、あえてここで「新憲法」を使うのは、そこにはやはり明治憲法とはまったく異なった新しいものを見出すからである。戦争と圧政から解放された民衆が、憲法の施行をよろこび、歌い、踊り、山間の山村青年が憲法の学習会を催し、自らも懸賞論文に応募する姿は、近代日本の歴史において、この時を除いて見あたらない。そればかりではない。制定過程の中でたしかに官僚の役割は無視できないが、つねに重要な役割をはたしたのは、官職にない民間人、専門家でない素人であった。日本国憲法が今日においてなおその現代的意義を失わない淵源は、素人のはたした役割がきわめて大きい(戦争の放棄条項を除いて)。当時の国会議員も憲法学者もその役割において、これら少数の素人の力にはるかに及ばない。GHQ案に影響を及ぼす草案を起草したのも、国民主権を明記したのも、普通教育の義務教育化を盛り込んだのも、そして全文を口語化したのも、すべて素人の力であった。

     かつて米国憲法一五〇周年記念(一九三七年)にあたり、ローズベルト大統領は「米国憲法は素人の文書であり、法律家のそれではない」と述べたが、近代国家の憲法とはそもそもそういう性格を持っている。

     古来、日本において「法」とは「お上」と専門家の専有物であった。その意味からすれば、やはり日本国憲法は小なりといえども「新しい」地平を切り拓いたのである。こう考えてみると、そこに冠せられる名は、老いてもなお「新憲法」がふさわしい。

    (古関彰一『新憲法の誕生』)

     〈了〉

    参考文献

    古関彰一、『新憲法の誕生』、中公文庫、1995

    森毅、『ぼくはいくじなしと、ここに宣言する』、青土社、2006


    科学コミュニケーションと感情知

    • 2012.04.30 Monday
    • 14:15
     

    科学コミュニケーションと感情知

    Seibun Satow

    Apr, 27. 2012

     

    「噺家殺すにゃ刃物は要らぬ。欠伸の三つもすりゃあいい」。

     

    1章 原子力と科学コミュニケーション

     フクシマ発生以来、専門家と非専門家の間でのコミュニケーション・ギャップが表面化している。従来から科学コミュニケーションの必要性は説かれてきたし、その実践も試みられている。けれども、フクシマをめぐる事態に対して、それらが十分に役目を果たしたとは言い難い。

     

     そもそも、科学コミュニケーションの重要性が語られるようになったきっかけは原子力開発である。原子核物理学者のアルヴィン・ワインバーグ(Alvin Weinberg)は、1972年、原発をめぐる受容可能リスク問題を「トランスサイエンス(Trans-science)」の領域と呼んでいる。それは、科学によって問えるが、答えられない問題群の領域である。原子力技術は、万が一事故が起きれば、社会に甚大な被害をもたらす。このような対象を閉じられた科学の知識生産系だけで議論するのは不十分である。開かれた熟議の場で、一般市民のコンセンサスを形成して今後の方向性を決めるべきだ。そうワインバーグは主張する。

     

     科学技術からリスクを完全に排除することは不可能である。それには大きく五つの問題点が指摘できる。第一に、各部分のリスクを分析し尽くしたとしても、非線形の認識から、その総合が全体のそれを表わすわけではない。第二に、装置を操作する人間の要因、すなわちヒューマン・ファクターを無視できない。第三に、統計的推測を根拠にしているので、個別事案に結果がそのまま適合するとは限らない。第四に、それ自身が危険であるため、発生確率を実験的に検証することができない。第五に、装置を取り巻く環境ならびにそれに関連する将来の事態を完全に予測することができない。

     

     このリスク排除の不可能性は、特に、原子力で顕著である。一例を挙げれば、メルトダウンの危険性を確認するために、実際の原子炉で実験するなどできるはずもない。科学技術では、リスクと便益を照らし合わせて、社会がそれを許容できるかどうかが採用の判断基準となる。そのため、科学コミュニケーションが必要なわけだが、日本では肝心の原子力では避け続けてきたのが実態である。そうして形成されたのが「安全神話」だ。

     

     フクシマを踏まえて、今後、科学コミュニケーションの活動が活発化すると予想される。科学技術をめぐる社会関係資本の形成が求められている。少なからずの科学者がよりよい科学コミュニケーションには、研究者の「社会リテラシー」と非専門家の「科学リテラシー」の向上が必要だと力説している。けれども、この問題設定には、二つの疑問がわく。一つは、果たして専門家が十分に科学リテラシーを備えているのかという点である。もう一つは、そもそも社会リテラシーとは何かという点である。

     

    2章 専門家の科学リテラシーは十分か

     科学リテラシーはさまざまに定義されている。それらを要約すると、科学的知識を理解し、それを日常生活などに活用できる能力である。専門家の科学リテラシーにおいて問題になるのは後半部分である。

     

     専門家と市民のリスク認知に関して差異があると各種の調査が報告している。少々古いが、よく引用されるポール・スロヴィック(Paul Slovic)の『リスクのレーティング(Rating the Risk)』(1979)を参考にしよう。原子力発電について、市民が1位と最も高くリスク認知しているのに対して、専門家は20位と低い。他方、X線では市民が22位、専門家が7位である。これを引き合いにして市民の科学リテラシーの不備が指摘される。

     

     しかし、概して、こういう調査では「リスク」の定義が曖昧である。この調査を含めて、心理尺度が採用される。

     

     最もよく知られるリスクの関係式は次の通りである。

     

     Risk=P(x)×M

     

     P(x)は事象の発生確率、Mは「悪影響の大きさ(Magnitudes of adverse effect)」である。リスクを算定する際、その事象が起きる確率だけでは不十分である。損害を考慮に入れなければならない。

     

     原発事故の場合、発生確率が非常に小さくても、損失額が莫大であるため、リスクは大きく算定される。原子炉内の総エネルギー量が巨大である以上、これだけでも破壊力は極めて大きい。燃料プールの使用済み燃料など原発はMが増大する要因はあまりにも多い。先の専門家の回答はMを果たして考慮に入れているかはなはだ疑問である。実際、日本の専門家が原発の安全性を強調する際、発生確率と対策に終始し、被害想定をほとんど口にしていない。無視ないし軽視しているとすれば、保身を除けば、日常生活への活用の点で、科学リテラシーが十分の身についていないことになる。リスクを先の関係式などで定義し、それを明示してその認知を調査得る試みはあまり見かけない。専門家と市民の間のリスク認知の差異を調査する際、心理尺度を採用すること自体が専門家のおごりだと言わざるを得ない。

     

     人はリスクに対して不安感を抱く。これは主観的であり、中には必ずしも科学的根拠があるわけではない。不安とリスクの最も素朴な関係式は次の通りである。

     

     Fear=Risk+Noise

     

     先の専門家にとって、Mを無視ないし軽視し、リスクは発生確率とほぼ等しい。ノイズはあまり入りこまないので、彼らの不安感は発生確率に近くなる。逆に、ノイズの部分に目を奪われて、専門家はしばしば市民を見る。ノイズはいくら分析しても情報がない。専門家はノイズの大きさが市民を怖がらせていると考える。彼らはノイズを取り除き、発生確率を伝えれば、一般人の不安感は減ると思いこむ。その際、自分の科学リテラシーが十分ではないことに気づきもしない。欠如モデルはこうした誤謬に基づいている。

     

    3章 社会リテラシー?

     次に、「社会リテラシー」をめぐる疑問に進もう。それに関する定義は、正直、曖昧である。そういった活動の報告・提言を読んでまとめると、社会の中の科学を自覚し、市民にわかるように語り、科学に何を求めているのかを理解する能力である。要するに、「社会性」のことだろう。しかし、これを「リテラシー」の一種と見なすことは承服しかねる。

     

     社会性に乏しい専門家が少なくないことは確かである。「専門バカ」という悪口もある。ただ、それは近代社会の産物である。

     

     前近代では、身分や職業が親から子へ継承され、稼ぎと暮らしの場所もほぼ同じである。生まれ、育ち、結婚し、老い、死ぬ過程がほぼ共同体内部で繰り返される。加齢と共に、経験を積み重ね、知識や知恵が身についてくる。近所や親戚とのつきあい方も覚え、社会性も体得する。見知らぬ人と出会う機会も少なく、共同体に適応していくことが社会性である。

     

     一方、近代社会は、生活と労働の場が分離される。移動も当たり前となり、一つの共同体の中で一生を終える方が少数である。未知の人との出会いは常態化している。お社会性を身につけるには、意識的な姿勢が不可欠である。経験を重ねて職場で会得した知識や知恵、人づきあいも、その外では必ずしも通じない。

     

     社会の生活者である市民はリスクの関係式のMを重視する。発生確率に基づいて発言する専門家との間でコミュニケーション・ギャップが生じるのは当然であろう。けれども、前述したように、Mの認知も科学リテラシーに属する。社会リテラシーではない。

     

     「リテラシー」は、話し聞く能力の「オラリティ」と対の概念である。オラリティは家族や近所での会話を通じて体得できる。一方、リテラシーは体系的・総合的・有機的カリキュラムに即した学習によって習得が可能である。そのため、学校を始めとする教育機関が必要となる。

     

     科学的認識はあるがままに知覚されることに反する場合が少なからずある。万有引力の法則は好例である。そのため、リテラシーの習得には学習が不可欠である。一方、社会性には他者との相互関係の認知・構築などが含まれるから、「社交性」とも言い換えられる。これは形式化できない以上、リテラシーに含められない。学習プログラムを考案している研究者もいるが、社会性はカリキュラムに依拠して会得するものでもない。

     

     科学コミュニケーションは科学に関する専門家と市民との間のコミュニケーション活動である。研究者自らが市民に語るアウトリーチ活動のケースとプロデューサー兼司会のサイエンス・コミュニケータが介在するケースの二つに大別できる。専門家の「社会リテラシー」の必要性を説く研究者の主張はほぼハード面の整備に終始している。小規模・大規模対話フォーラムや円卓会議、コンセンサス会議、サイエンス・ショップ、参加体験型イベントの開催など図解も交えた数々の提案がある。

     

     ところが、肝心のソフト面の認識がほとんどない。話しかけなければ、コミュニケーションは始まらない。赤の他人に声をかけ、おしゃべりができるなら、ハード面の充実で十分だろう。科学コミュニケーションは日々のコミュニケーションが成り立って初めて可能になる。しかし、知らない人に話しかけておしゃべりをすることが、実は、難しい。

     

     金田一秀穂杏林大学教授は、『新しい日本語の予習法』において、アメリカ資本のファミリー・レストランに入ったら、米国の接客マニュアルそのままだったために、閉口したと回想している。アルバイトの若い女性があれこれ話しかけてくるけれども、とにかくうるさい。こちらから話しかけてもいないのに、しゃべり続けられると、興ざめする。会社がアルバイトに米国流を強制したと見られるが、半年ほどしてそのサービスが停止されている。お客からも、従業員からも不評だったためと推察される。

     

     また、「豆富屋」として初めて上場した篠崎屋の樽見茂社長は、『豆富バカが上場した!』において、産直の販売員の雇用条件を50歳以上としている。以前に若者を雇ったことがある。彼らは挨拶もお礼もちゃんとできるが、お客とのコミュニケーションがまったくない。一方、高齢者の接客態度・技術は見事である。声のかけ方一つでお客の心をつかんでしまう。敬語を使う人も使わない人もいる。よそゆきの言葉でなくても、失礼な感じがない。「親愛の感情」がある。

     

     専門の接客業でも、これだけ苦労している。科学コミュニケーションに臨む専門家は年中それだけを考えているわけでもあるまい。この二例に共通しているのは、人生経験の少ない若者が顔見知りでない人とコミュニケーションをとることの難しさである。マニュアル通りに話せても、語りかけられない。これは、おそらく、研究者にも言えることだろう。見知らぬ人とおしゃべりもできないのに、科学コミュニケーションなど夢物語である。下手くそほど自分が見えていないから、いきなり難しいことをしようとするものだ。社会性を「社会リテラシー」とする認識では、未知の人との日常的なコミュニケーションはおぼつかない。科学コミュニケーションの拡充を目指すのであれば、この発想から改めるべきである。

     

    4章 タクト

     科学コミュニケーションの研究者が「社会リテラシー」で言いたいものを表わす最適の概念が教育学にある。それが「タクト(Takt: Tact)」である。科学コミュニケーションの言説にはこの概念はまずお目にかからない。ラテン語の「触覚」に由来し、英語で、「機転」や「如才さ」を意味する。指揮棒を「タクト」と呼ぶが、同じ単語である。後に述べるように、この概念は社会性が感情と密接な関係があることを示している。

     

     近代化が進むにつれ、見知らぬ人と出会う機会が増す。社会がコミュニティの集合からネットワーク化する。漠とした社会で、どのように新たな事態に対処するかを人々は求める。アドルフ・FV・クニッゲ(Freiherr Adolph Franz Friedrich Ludwig Knigge)の『人間交際術(Über den Umgang mit Menschen)(1788)が大ベストセラーになっている。見ず知らずの人への声のかけ方や話題のつく方等の他、ナンパ術まで記されている。

     

     未知の人との出会いが常態化する社会に対し、ケーニヒスベルク大学教授イマヌエル・カントが「タクト」を主張する。綱渡りの際、来たるべき未知の状態を注視して進んでいく。タクトは未来を察する能力、社交の技である。

     

     それを受けて、カントの後任教授ヨハン・フリードリヒ・ヘルバルトがタクトを教育学上のコミュニケーションの概念として展開する。子どもの将来は未知である。しかも、個別のコンテクストを持っている。社交の技を拡張した察しの技が教師には求められる。教育的タクトは教員が児童・生徒の可能性を発見する、または精神的成長を見出す能力である。ヘルバルトは、明晰・・連合・系統・方法という「形式的段階」として連合心理学に基礎を置いた教育論を構築し、段階的教育とそれに基づくカリキュラムを教育学にもたらしている。

     

     タクトは定量化できないパターン認識である。経験によって磨かれ、段階的に会得することはできない。タクトは「失敗から学ぶ(Learning from Failures)」技である。ただ、それはやみくもにした失敗ではない。「期待に反する失敗(To fail my expectations)」である。失敗したら、パターン照合をし、修正したり、他のものと変更したり、統合したりする。タクトは人格と結びついているため、マニュアル化できない。だから、タクト養成はカリキュラムでは困難である。つねにタクトを意識し、経験を積み重ねるほかない。イメージ・トレーニングはタクト習得の一つの方法である。

     

     タクトは教育学以外にも適用できる。従業員のタクトの向上は、サービス業でも日夜努力・工夫されている難問である。それを社会性の未熟な科学の研究者がすぐに達成できるはずもない。この「未熟」は話下手だけを指していない。往々に、話し上手とされる専門家は、相手の反応も確認せず、自分のペースで単調に語る傾向があり、眠くなるものだ。むしろ、システムを整備してそれを補う方が効果的である。未熟であっても、科学コミュニケーションに臨めるし、そうした場数をこなしている間に、熟達してくるだろう。

     

     NPO法人「くらしとバイオプラザ21」は「くらしとバイオ」に特化したサイエンスカフェを開催している。サイエンスカフェは、1998年、TVディレクターだったダンカン・ダグラスがイギリスのリーズのカフェシアンティフィークで始めた専門家と市民の語らいのイベントである。日本でも開かれているが、多くは大学が主催している。そんな中、このNPOは生活に密着したバイオの話題・情報提供とゲストの専門家を交えた対話を続けている。

     

     このバイオカフェの満足度は、参加者とゲストのスピーカーのアンケート結果を分析すると、一般のフォーラムやシンポジウムよりも、前者のそれが高いことがわかる。参加者の実に90%以上が満足している。さらに、興味深いのは「バイオカフェのやり方について」に関する0506年のアンケート結果の総計である。「気楽に話し合いたい」の回答が最も多く、「他の参加者の意見が聞きたい」と続き、次が「スピーチを長くしてほしい」だが、鼻差で「講師に直接質問・意見が言いたい」が来る。これが示しているのは、参加者はスピーカーとの縦の一方向よりも横や双方向のコミュニケーション、すなわち交流を求めていることである。

     

      こうした分析から、市民は正確な情報を聞くのみならず、それに関して話し合うことを望んでいることが明らかになる。どんなに正しくても、専門家の話を聞いているだけでは嫌なのであって、自分たちにも言わせろというわけだ。緊急事態になればなるほど判断力は低下するので、そうしたくなる。市民は、横や双方向を含めた多様なコミュニケーションを通じて、抱いている不安や意見を相互に交感し、その情報の妥当性を吟味し、納得して判断した行動をしたい。

     

     このアンケート結果を科学コミュニケーションの研究者も承知している。しかし、それを生かしているようには見受けられない。調査結果を踏まえたシステム整備をすれば、未熟なスピーカーであっても、市民の満足度は高くなるだろう。一般の人が求めているのは「説明」ではない。「共感」だ。専門家にわかってほしいのは自分たちの気持ちである。それは話を聞くことから始まる。ここに着目してシステムを考えればよい。先に市民に質問・意見を述べさせ、それに専門家が応答するようにすればよい。科学コミュニケーションにおける専門家のタクトの向上は、最終的には、経験を積むほかない。しかし、工夫の余地はある。

     

    5章 コミュニケーションの特徴

     日常的なコミュニケーションがあり、その上で科学コミュニケーションが可能になる。それなら、コミュニケーションにはどのような特徴があるのかを確認する必要がある。

     

     コミュニケーションの特徴は次の八つに要約できる。

     

    記号性

    コミュニケーションは記号を介して行われる

    内容・関係性

    伝達内容と同時に当事者の人間関係を伝える

    不可避性

    意図を前提としない

    デジタル・アナログ面

    要素に分割できるものとできないものがある

    不可逆性

    元に戻すことができない

    先行性

    人生の経験が反映される

    進行性

    固まらないし、終わらない。

    コンテクスト性

    何らかの場の中で行われる

     

     それぞれ例を交えて開設しよう。

     

     コミュニケーションは、言葉やジェスチャー、表情など必ず意味ある記号を介して行われる。それが記号性である。

     

    LSP Literacy Studies Platform リテラシースタディーズプラットフォーム

    • 2012.04.01 Sunday
    • 22:02

    リテラシー・スタディーズ・プラットフォーム

    • 2012.04.01 Sunday
    • 17:38
     

    リテラシー・スタディーズ・プラットフォーム

    Ver1.0

    Seibun Satow

    Nov, 9. 2009

    「定義は、定めるよりも反論するほうがやさしい」。

    アリストテレス『トピカ』

     

     批評とは意味を解釈したり、機能を分析したりするなどして、対象を意識化して「評し(Appreciate)」、「体系付け(Systematize)」、他者に「共感(Empathy)」させる行為である。

     「リテラシー・スタディーズLiteracy Studies」」は「リテラシー(Literacy)」に注目して解剖学的に考察する批評である。いかなるコミュニケーションにも、その分野(Discipline)特有の通時的・共時的な知識・技能・認識があり、それがリテラシーである。リテラシーは内部と外部の相互作用において顕在化してくる。リテラシーはその内部にとって往々にして暗黙知であり、インサイダーはそれに基づいた認知地図や認知の優先順位を意識的・無意識的に身につけている。リテラシー・スタディーズは外部の他者に向けてそれを明示化する。さらに、対象がリテラシーを理解した上で、適切に用いて表現し、コミュニケーションを生み出しているかを吟味する。

     イデオロギーや主義主張もリテラシーに則って表現される。制作者はリテラシーを会得していなければならないが、受容者は、たいていの場合、それを意識していない。リテラシーにおいて、両者は非対称の関係にある。リテラシーに注目する探求は倫理性を問うことでもある。

     リテラシー・スタディーズは、まず、分野の定義を明確にする。定義はその本質の要約であり、他者が理解・習得する際の鍵である。「日本語は文字の言語である」と定義した場合、それはノンネイティヴ・スピーカーが日本語を学習した際に、文字が難関となることを意味する。普段どんなに非合理的・感情的・衝動的な言動をする人であっても、他者になると論理主義者である。他者は論理的に納得するまで問いかけをやめない。その定義に基づいて理論体系を構築し、精密化する。加えて、リテラシー・スタディーズはヒュ−リスティックやしろうと理論など思考のショートカットに陥らないようにつねに警戒する。そのために、解剖学的態度をとる。リテラシー・スタディーズは理論性・体系性・本質性・倫理性・社会性への意志を堅持し、恣意的な思いつきや思いこみに基づく当て推量や我田引水を糾弾する。

     人間の営みを次のような階層秩序に体系化すると、定義が容易になる。

     

    (1)領域(Area Order):芸術(Art)、学問(Science)、経済活動(Business)、遊び(Play)など

    (2)区分(Division Order):文学、美術、映画など

    (3)分野(Discipline Order):散文フィクション、詩、演説など

    (4)ジャンル(Genre Order):近代小説、告白、ビカレスクなど

    (5)作品(Work Order):『失われた時を求めて』、『ユリシーズ』、『変身』など

     

     これらの分類は見通しをよくするためのものであり、言うまでもなく、便宜的である。純粋系はむしろ稀で、ほとんどは相互依存・相互浸透している。建築は芸術でも、科学でも、ビジネスでもある。また、経済学は上位の経済活動を下位の区分の一種が研究対象としている。この分類は排他的・一方向的ではなく、複合的・多方向的に見るべきである。

     なお、上記の各階層にはおのおのを「大秩序(Major Order)」として、「小秩序(Minor Order)」を設ける場合もある。領域を例にとると、「小領域(Minor Area Order)」には人文科学や社会科学、自然科学などが含まれる。このカテゴリーは議論の必要に迫られた場合に設置される。分類は手段であって、目的ではない。

     定義が必要となるのは、主に、区分・分野・ジャンルである。その定義がリテラシーを生み出す。リテラシーがあれば、リテラシー・スタディーズを適用することができるため、拡張の可能性が高く、汎用性に富んでいる。また、リテラシー・スタディーズは批判・研究・教育・実践の四つのフェイズによって有機的に形成され、それぞれの比率によって活動形態が異なる。リテラシー・スタディーズは、その点で、ハッチポッチ・クリティシズムである。

     スポーツを例にリテラシー・スタディーズの切り口を示してみよう。スポーツ全般は「区分」に分類され、各競技種目は「分野」や「ジャンル」に分けられる。スポーツは人・道具・環境の要件から成り立っている。目的は勝敗を争うことである。個々の競技種目にはルールがあり、それに従って戦略・戦術・作戦が立てられる。言うまでもなく、戦略以下はすべてがルールによって誕生したわけではなく、多くは対戦を通じて考案されている。しかし、ルールの枠を超えることはできない。また、ゲームはスポーツに似ているが、環境要因が小さくなる。駅の待合室でポーカーはするが、バドミントンはできない。

     ルールは不可侵・一義的・二義的の三つに大別できる。まず、不可侵のルールは、その競技を定義付けているため、変更することができない。変えた場合、それは別の競技になる。ラグビーにおけるスロー・フォワードの禁止がこれに当たる。次の一義的ルールは概観を規定し、それを改めると、別の種目を派生させる。コート上の1チーム5人で屋内にて行なうフットサルが一例である。最後の二義的ルールは進行を定め、変更しても、派生系を生み出すことはないが、戦略以下に影響を及ぼす。バレーボールにおけるサーヴィス・ポイント制からラリー・ポイント制への改訂がこれに含まれる。大部分のルールはこのカテゴリーを指す。

     諸々のルールに従ってその競技種目に固有のリテラシーふぁ蓄積・形成される。各スポーツ競技の魅力にそれぞれ固有のルールが寄与していることは否定できない。人とルールならびにそれによって規定された道具や環境とせめぎ合いながら、相手と対戦し、チームやプレーヤーの個性を育む。

     扱う対象にかかわる定義を明確にしたら、リテラシーに言及しつつ、議論を展開する。その際、すでに有効と認められた定義やリテラシーのアイデアをアルゴリズムとして援用することもできる。エーリヒ・アウエルバッハの『ミメーシス』やノースロップ・フライの『批評の解剖』は文学研究におけるアルゴリズム集である。リテラシーの習得には、体系的・総合的なカリキュラムに沿った学習が必要とされることも多いため、こうしたテキストの利用は効果的である。

     リテラシー・スタディーズは作品のディテールの適切さも確認することができる刑事を仮定しよう。同じ刑事でも捜査一課と四課では、リテラシーに違いがあるため、認知地図やその優先順位が異なっている。もしテレビ・ドラマに登場する刑事にこの傾向を感じられないとすれば、それは恣意的に描いたためであって、そういった人物造形の甘さは作品の出来を左右しかねない。

     リテラシー・スタディーズの基本的な作業行程は次の通りである。

     

    (1)対象にかかわる範囲を特定する。

    (2)その定義を明確化する。

    (3)定義から導き出されるリテラシーを明らかにする。

    (4)その対象とリテラシーの関係を吟味する。

     

     これ名最もベーシックな流れであって、状況に応じてさまざまに拡張することは可能である。または、段階をいくつか省いて、考察を集中する場合もありうる。

     リテラシー・スタディーズには、そう名乗っていないけれども、優れた先駆例がある。夏目房之介の『マンガはなぜ面白いのか』や小栗康平の『映画を見る眼』が相当する。両者ともマンガや映画に特有のリテラシーを明らかにして、魅力の理由を示し、それを踏まえて理論を体系化している。リテラシー・スタディーズに関する具体的なイメージがつかない場合には、この二作品を参考にするとよい。また、簡単な実践例としては佐藤清文による「反復と比喩─詩とリテラシー・スタディーズ」も挙げられる。リテラシー・スタディーズはその分野ならではの面白さを解き明かすことを意図している。

     以上がリテラシー・スタディーズの方法論の概説である。これを使って実践されることを期待する。しかし、あくまでプラットフォームのヴァージョン1.0である。これは、実践されつつ、有志者の手によって加筆・補正され、拡張・発展することを求めている。

    〈続〉

    参考文献

    小栗康平、『映画を見る眼』、日本放送出版教会、2005

    夏目房之介、『マンガはなぜ面白いのか』、NHKライブラリー、1997

    エーリヒ・アウエルバッハ、『ミメーシス』上下、篠田一士他訳、ちくま学芸文庫、1994

    ノースロップ・フライ、『批評の解剖』、海老根宏他訳、法政大学出版局、1980

    佐藤清文、「反復と比喩─詩とリテラシー・スタディーズ」、2009


    http://www.geocities.jp/hpcriticism/oc/rm.html



     

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