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    ジェレミー・ベンサム

    • 2012.06.02 Saturday
    • 06:54
     

    ジェレミー・ベンサム

    Seibun Satow

    Jun, 01. 2012

     

    “Buy a big bright green pleasure machine!

     You better hurry up and order one”.

    Simon & Garfunkel “The Big Bright Green Pleasure Machine

     

    1章 幸福の計算

     201111月のジグミ・ケサル・ナムゲル・ワンチュク国王の来日により、日本でもブータンが提唱する「国民総幸福量(GNH: Gross National Happiness)」が注目されている。これは、1972年、ブータン国王ジグミ・シンゲ・ワンチュク「国民全体の幸福度」として提唱する。物質的ではなく、精神的な豊かさ、すなわち幸福を目指すべきである。この考えを受け、現在、同国政府はGNHの増加を政策の中心としている。

     

     社会における幸福の総量を計算するアイデアは、これまでしばしば嘲笑の的になっている。それは一種の費用・便益分析であり、直観的には同意できても、主観的領域に属するものを社会的共有に適用する説明に説得力を持たせることが難しい。

     

     幸福の計算を提案した歴史上最も有名な思想家はジェレミー・ベンサム(1748-1832)である。人間は快楽を求め、苦痛を避ける。意識していなくても、そうしている。JBは『道徳および立法の諸原理序説』(1780)においてそれを「功利性の原理(The Principle of Utility)」と呼んでいる。「行為がもたらす利益が人々の幸福を増大させるか減少させるかによって、その行為を是認したり否認したりする原理」である。功利性は、個人に快楽、利益、便益、善、幸福等をもたらし。苦痛や危害、害悪、不幸などを防ぐものである。ただ、わかりくいこともあり、快楽=苦痛の考えを保持しつつ、次第にJBは「幸福(Hpppiness)」を功利性とほほ同様の意味で用いている。

     

     すべての個人の行動は快楽と苦痛の量的比較の「幸福の計算」に従っている。JBは、ある行為によって快楽=苦痛がどれだけ得られるかを決める要因として、「強さ」、「持続性」、「確実性」、「実現時期の近さ」、「多産性」、「純粋性」、「範囲」の七つを挙げている。その上で、彼は個人の幸福と社会のそれとを結びつける。特定の個人の幸福が社会のそれと同じとは限らない。けれども、社会の幸福が個人からと独立しているわけではない。「社会の利益を社会の構成メンバーの利益の総計」である。ある個人の快楽の合計を増大させ、苦痛を減少させるとき、そのことは功利性の原理に適っている。社会は個人の総計である。個人の快苦を演算できれば、社会のそれも可能である。社会の行動を評価する目的のため、個々人のそれを合計することができ、「最大多数の最大幸福(The Greatest Happiness of the Greatest Number)」の基準によって判断され得る。ある政策が個人の快楽の総量を増大させ、苦痛を減少させるなら、その人の利益に役立つ。

     

     個人の利益が計算できれば、社会のそれも導き出せる。JBは、この快苦の演算は次の七つのステップを踏むアルゴリズムとして提示する。

     

    ステップ1

    直接の利害関係者にその行為が最初に生み出す快苦の価値。

    ステップ2

    その後に生み出される快苦の価値。

    ステップ3

    快苦の合計。

    ステップ4

    利害関係者の人数を計算に入れて、以上のステップを反復。

    ステップ5

    その行為が全体としてよい傾向である各個人に関して、それが持つ強さの程度を示す人数分を計算。

    ステップ6

    その行為が全体として悪い傾向である各個人に関して、それが持つ強さの程度を示す人数分を計算。

    ステップ7

    ステップ56の数値を演算。快が多ければ、その行為は一般的によい傾向があり、苦が多ければ、その逆。

     

     近代において、各個人は自由で平等、独立している。移動や就労の自由が認められ、見ず知らずの人と出会う機会が格段に増えている。こうしたアトム的状況における社会的共有を見出す必要がある。そこでJBは新たな社会的共通基盤として快苦に基づく功利を示す。自由で平等、独立した個人なのだから、高尚であれ、低俗であれ、快楽という点では同じである。また、個人の快苦の総計は社会のそれとして考えることができる。JBはポストモダン的状況を先取りしているとも言える。

     

     JBの功利主義は、その後、社会における共通理解として認知されている。政治や経済、法律、道徳などその及ぶ範囲は非常に広い。日本国憲法13条にもその影響が見られる。「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」。第二次世界大戦後に世界的に主流の国家観となった福祉国家は功利主義なくしてあり得ない。

     

     また、社会を快苦の演算システムと捉える見方は今日の情報化社会そのものだという考えもある。ITの進展によりJBの夢見た世界が実現しつつあるというわけだ。コンピュータの使用領域を広げていくには、いかにして計算可能性を拡大するかが情報科学者にとっての課題である。社会環境は計算論的に把握される。ビッグデータを収集・分析して利活用し、個人及び社会の幸福を増算させ、不幸を減算させる。その意味では、意識していなくとも、現代人の大半が功利主義者ということになる。

     

     他方、JBが現代管理社会や全体主義の源泉の一つとして糾弾されることもある。ミシェル・フーコーの『監獄の誕生』(1975)によるJBのパノプティコン批判がその代表であろう。JBは、1791年、刑務所を始めとする施設の合理的な建築として一覧監視システム「パノプティコン」を提案している。中心に監視塔があり、数階建ての半円形の建物がそれを取り囲み、蜂の巣上に監房が配置されている。少数の刑務官で全収容者を監視できる。しかも、収容者はいつ見られているかわからない。フーコーは、18世紀末から始まる近代社会の統治原理の象徴としてこのパノプティコンを批判する。パノプティコンは視線による統治の技法である。徳や本姓、人格などではなく、空間的配置を通じて人々を支配する。これが現代の少数者による多数者監視の典型的な手法だ。ただ、フーコーにとってJBは仮想敵であって、真の対象はこうした時代風潮である。

     

     けれども、そうしたJBへの批判には飛躍がある。キリスト教が引き起こした数々の残忍な惨劇をイエスに還元するようなものだ。思想史上におけるJBの意義を理解した上で、正当に批判する必要がある。

     

     実は、現代社会における監視と自由の関係は、フーコーが指摘した当時よりも複雑である。監視が自由を制限するのではない。自由のために監視が必要とされる。現代のネットワーク社会では個人情報の流出や暴露が頻発している。こうした漏洩は個人の自由を妨げる。そのために、個人情報の管理の徹底を監視することが求められる。反面、コードによるネットワーク上の検閲の技術も発展し、監視の自動化が進んでいる。監視と自由の関係が錯綜している。

     

    2章 根拠を問う

     野崎昭弘大妻女子大学名誉教授は、『不完全性定理』(1996)において、古代ギリシャの数学史に言及して、数学者を三つのタイプに分類している。

     

     第一は、「根拠を問う」数学者である。新たな問題を設定し、権威によって結論づけるのではなく、根拠を問い、合理的な説明を試みる。その代表例がタレスである。

     

     第二は「理想化する」数学者である。問題を問いつめ、理想化していく過程で、それが秘める可能性や課題を明らかにする。鋭い批判で議論をブラッシュアップするが、しばしば生産性を欠く。一例がゼノンである。

     

     第三は「体系化する」数学者である。問題を共通基盤にして、さまざまな成果を関係づけ、体系に仕上げていく。ユークリッドが好例であろう。

     

     野崎名誉教授は、古典時代以降の数学史、特に集合論の創成期において、この三類型を数学者に当てはめ、こうした比較は思想史にも適用できよう。JBは、このうち、第一のタイプ、すなわち「根拠を問う」思想家である。伝統的支配の社会において「最大多数の最大幸福」は革命的である。JBの主張が正しいか誤っているかはたいしたことではない。新しい問題設定をしたことが重要である。「最大多数の最大幸福」は、もともとは近代刑罰論の父とも呼ばれるチェーザレ・ベッカリーアの言葉で、一握りの人人だけが幸福であってはならないという主張である。JBの貢献は、幸福を増大し、不幸を減少させることを社会の根拠として取り上げ、その問題を要約するフレーズと謳ったことである。幸福を社会的に共有するにしても、もはや教会の与えるそれでは近代に適していない。そうした時代において、「最大多数の最大幸福」はまさに最適である。

     

     英国の知的シーンはこうした桁外れに風変わりで、エキセントリックな人物を輩出する伝統がある。しかし、JBは、その中でも、とびぬけた奇人である。何しろ、21歳の時に、死後、解剖学の進歩のためにと自らの遺体をミイラにする遺言を記している。

     

     JBの立てた問題設定によって議論が始まる。拡張・修正・補完・批判・復活といった豊かな考察が生まれ、体系が構築されている。ジョン・スチュアート・ミルは、JBを受け継ぎながらも、量から質へと幸福の議論を変換させ、最初の功利主義の理論体系を構築している。また、法曹関係者はJBの幸福の計算を歓迎する。自然権の教義にとって代わる思想を提供したからである。さらに、行政は、「最大多数の最大幸福」を基本原理として、政策を立案していく。

     

     JB自身も「根拠を問う」だけでなく、「理想化する」や「体系化する」思想家としても振る舞おうといしている。見知らぬ自由で平等、独立した個人が共存する社会における功利性の観点から政治や経済、法律、道徳などの全般的変革に関する具体案を提言する。時事的な課題に社会工学的に功利主義で対処するその姿は、ジャーナリズムとエンジニアリングの現代を先取りしている。

     

     JBは壮大で綿密な法制度改正を計画する。それは裁判所・刑務所・病院・学校などの行政改革にとどまらない。管理や監視は見知らぬ人が共存せざるを得ない近代の条件から強化される。パノプティコンの建築デザインに、裁判官・刑務所所長・医師・教員のタイム・スケジュールや待遇など広範囲に及ぶ。救貧法や工場法の制定、警察組織の改善などにとりくんだ際、機構編成の計画のみならず、その実施に伴う行政上の措置に関する明細書も作成している。彼以前にそうした企てを体系的に行った人物はおらず、その意味で、行政学の父と呼べるだろう。

     

     一連のアイデアは書物によって知識人層に浸透したわけではない。書簡やパンフレット、ノート、メモなどを閲覧した少数のフォロワーや社会的リーダーが実現に移している。JBは相続財産で暮らし、後半生、家に引きこもり、人との接触も抑えがちな隠遁者である。アイデアが浮かぶと、すぐにメモをとり、それをカーテンにピンでとめる。鉄のカーテンならぬメモのカーテンである。出版によらず、狭い交友を通じてプランを広めた非常に稀な思想家である。JB19世紀前半の英国における行政改革への影響は絶大である。熱狂的な信奉者が民法・刑法などの新たな制度設計を試みている。さらに、選挙法改正や教育法、工場法、新救貧法などにもJBの英国慣習法改革のアイデアが見られる。

     

     もっとも、採用されたのはJBの膨大なプランのほんの一部にすぎない。大部分は、時代に対してあまりにも進みすぎているか、同時代の波長と合わないかのいずれかである。死刑制度廃止や同性愛者の権利擁護なども訴えている。また、ラテン・アメリカ諸国のための憲法に関する論考も著わしている。しかも、彼はつねに進化しており、主張が変遷を重ねている。例えば、経済に関する意見には古典派から限界効用、ケインズ主義まで含まれている。デヴィッド・リカードゥとロバート・マルサスが論争している時代に、ミクロ経済学・マクロ経済学を述べたところで、世間がついていけるはずもない。示唆を受けたとされる経済学者を列挙してみても、リカードゥやジェイムズ・ミル、ジョン・スチュアート・ミル、フランシス・イシドロ・エッジワース、ロバート・オーウェン、ウィリアム・ジェヴォンズなどとっちらかっている。

     

     JBはインパクトのある問題設定能力によって同時代や後世に影響を与えている。多くのアイデアやプランも提示したが、それらは支持者や追随者にとって刺激的なモデル・ケースである。快楽を増大し、苦痛を減少することで幸福を得ようとする。「最大多数撃鵜の最大幸福」というシンプルで、誰にとってもわかりやすい社会の根拠の説明は非常に汎用性が高い。強さ、持続性、確実性、実現時期の近さ、多産性、純粋性、範囲という功利の条件を満たしている。

     

     JBの功利主義は。自由で平等、独立した個人という近代の理念に基づく社会の根拠を問う中から生まれている。それに対する批判は、新たな問題設定の提示によって初めて抜本的になる。その際、新しい時代の理念が必要である。功利主義は人間中心主義であり、生物多様性をめぐる倫理を提供しえないという批判もあるだろう。将来、克服される時が来るかもしれない。ただ、社会を快苦の計算システムと捉える大胆な発想はおそらく永久にラディカルである。「われわれの生きる時代は忙しい時代である」(ジェレミー・ベンサム『統治論断片』)

     

     311以降、幸福の増算もさることながら、不幸の減算が現代日本において重要な政治的・経済的・社会的課題であることが周知のこととなっている。ブータン国王の来日に、人々が歓迎を大いに示したのは幸福を社会の共通理解とすることの意義を痛感したからである。菅直人前首相は「最小不幸社会」を自らの内閣の理念として掲げたが、これは現代の政治では常識であって、改めて表明すべきではない。しかし、その後に誕生した政権は幸福や不幸を政治として向き合うことさえ放棄している。現首相は社会的共通基盤としての功利を理解していない。フクシマの不幸はもっと減少できなかったのかと解明が進んでいる調査を参考にする気がなく、なかったことにしたいようだ。

     

     フクシマを始め311はちょっとした苦痛ではない。取り返しのつかない不幸である。それを共有しないで、よりよい社会の建設はあり得ない。311は災害による直接的な犠牲者のみならず、避難に伴う関連死亡者、さらに餓死者や自殺者など万単位の「人命」が失われている。この状況を前に、別の政治課題で「政治生命」賭けると口にする人物が首相というのは幸福とはとても言えない。

    〈了〉

    参照文献

    大河内一男編、『世界の名著49』、中公バックス、1979

    大越義久、『刑罰論序説』、有斐閣、2008

    高坂健次、『幸福の社会理論』、放送大学教育振興会、2008

    土屋恵一郎、『怪物JB 快楽主義者の予言した社会』、講談社学術文庫、2012

    永井義雄、『人類の知的遺産44』、講談社、1982

    野崎昭弘、『不完全性定理』、ちくま学芸文庫、2006

    ミシェル・フーコー、『監獄の誕生』、田村俶訳、新潮社、1977

    マーク・クローグ、『ケインズ以前の100大経済学者』、中矢俊博訳、同文館、1989


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