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    児童文学のために

    • 2012.06.16 Saturday
    • 05:13
     

    児童文学のために

    Seibun Satow

    Jun, 15. 2012

     

    「子どもを過大評価する危険よりも、過小評価する危険のほうがはるかに大きい」。

    ジャンニ・ロダーリ『ファンタジーの文法』

     

     ある対象がそれに属さない人たちの願望の反映として歴史的に形成されたことを明らかにします。最初にこうした方法論を提示したのがフリードリヒ・ニーチェの系譜学です。彼は道徳で展開しましたが、20世紀後半、それが広範囲に見られるようになります。シモーヌ・ド・ボーヴォワールの『第二の性』(1949)やエドワード・サイードの『オリエンタリズム』(1978)がその代表でしょう。前者はフェミニズム、後者はポスト植民地主義に決定的に影響を与えています。

     

     この方法は汎用性が高いものです。そのため、インフレになり、ボーヴォワールやサイードの持っていたインパクトはありません。流通している言説批判が主眼ですので、その対象の真の姿はその検討から導き出されることはないのです。不可能性が結論として提示されるのがお決まりです。功績は、むしろ、いかなる対象にもこうした認識を前提にすべきだという点でしょう。この発想を内包した上で、発展性をもたらす論考が求められるのです。

     

     ところが、残念ながら、それに気づかず、生産性を欠く考察もあります。既存の言説を相対化して、建設的な議論の発展を促進するのではなく、それを阻む嫌味なアイロニーでしかありません。結局、社会と文化の相互関係の堂々巡りを物語るのです。ジャクリーン・ローズ(Jacqueline Rose)の『ピーター・パンの場合─児童文学などありえない?(The Case of Peter Pan, or the Impossibility of Children's Fiction)(1984)がその典型でしょう。

     

     この論考はフィリップ・アリエスの『〈子供〉の誕生』(1960)の延長線上にあります。ジャクリーン・ローズは同書で「児童文学の不可能性」を指摘します。「子ども」は大人の願望の反映によって歴史的に形成されたイメージにすぎません。作品に登場する子どもは純真無垢などそれに沿っています。けれども、その背後には、精神分析を用いるなら、「性としての子ども」や「商品としての子ども」が潜んでいます。それらと実際の読者の子どもとの間にはギャップがあるため、児童文学は不可能だというわけです。

     

     児童文学が近代社会の産物であることは確かです。近代以前、子どもどころか、大人の識字率も高くありません。読み書きができるのは一部の聖職者や貴族、知識人などです。児童文学という産業が誕生したのは19世紀半ばの欧州です。20世紀初頭までが形成期と見なすことができます。産業革命の進展に伴い、中産階級が出現します。すでにロマン主義者が子どもを汚れなき存在として崇拝していましたが、ヴィクトリア朝の抑圧的な通俗道徳と社会進化論が子どもに具現化され、中産階級に認知されるのです。子どもは純真無垢であり、救いをもたらすと同ときに、進歩するこれからの社会を担います。当ときの子どもに関する認識をよく示しているのがチャールズ・ディケンズの小説でしょう。この国民作家は子どもを大人を救済する存在として登場させ、読者はその健気さに涙せずにはいられません。『オリバー・ツイスト』(1838)が好例です。

     

     こうした変化により、児童労働の制限や義務教育の開始などの社会改革が進みます。と共に、子どもをめぐる産業も急成長していきます。子ども向けの玩具や衣服が現われ、ジョン・テニエルなどの挿絵が入った児童文学書が次々に出版されます。子ども部屋が出現したのもこのとき期です。この新たなジャンルは教訓物語ではなく、ルイス・キャロルを始め、狭量な社会のもたらす認識を広げさせる想像力の冒険です。また、ハンス・クリスチャン・アンデルセンのように、民話や童話にアイデアを求めた作品も流通しています。こうして児童文学は欧州に定着し、近代化の世界的拡大に伴い、その外部でも見られるようになっていきます。

     

     こうして登場した児童文学は、今日、一つのジャンルとして確立しています。児童文学を定義すると、それは思春期以前の子どもを主要読者層に想定した文学ジャンルです。セグメント化されていますが、主な区分は発達段階、すなわち年齢です。散文でも詩でも作品内の文は短く、その構造も単純、語彙も少ない特徴があります。日本語の書籍では、概して、敬体が用いられます。登場人物は、読者と同じ年齢の場合は等身大が多く、そうでないときは、何らかの象徴として描かれます。舞台は、主人公が等身大の作品では日常世界のこともありますが、たいていは非日常的・空想的です。

     

     構成は定型的です。散文では昔話や物語の構造や規則を踏襲し、詩も伝統的な定型ないしそのヴァリエーションが中心です。ある世界から出発して、別のそれを渡り歩き、最後は元に戻るという円環構造がよく見られます。散文の描写は詳細さに欠け、隙間が多い傾向があります。

     

     執筆者はたいてい大人です。児童文学は、その意味で、子どもによる、子どものための、子どもの文学ではありません。作品上の子どもの扱い方や描き方も、作家の個性だけでなく、とき代や社会の影響を受けています。

     

     子ども向けの書籍は非常に幅広いのです。読み書きができない幼児を対象にしたカラフルな絵本から白黒のペン画が数枚挿入されただけの小学生高学年向けの物語までが含まれます。内容もナンセンスな言葉遊びから道徳的なジレンマまでと多岐に亘ります。大人向けとの内容の違いは、教育的配慮を除けば、さほど認められません。また、読まれ方も、大人が読み聞かせる場合もあれば、一人で黙読する場合もあります。学校や地域の図書館も児童文学に接する機会を提供しています。そこでは全国学校図書館協議会図書選定基準などに即した蔵書が多いですが、教科書ではありませんから、読まなければならない本ではありません。児童文学は子どもとの間にアフォーダンスの関係があります。児童文学は子どもに読み聞かせる行為もしくは読む行為をアフォードするわけです。

     

     このように、児童文学は何らかの形で大人が介在しています。子どもを受動的に見ているから、児童文学の不可能性という結論に至るのです。文学を楽しむ際に、読み書き能力が必要になります。識字能力の学習には総合的・段階的なカリキュラムが不可欠です。それを習得したのが大人、その途上にあるのが子どもになります。読み書きの力が大人と子どもをわけるわけです。能動的な大人がとりしきり児童文学を受動的な子どもに提供するのだから、それは不可能ということなのです。

     

     けれども、子どもを受動的と決めつけるべきではないでしょう。黒澤明監督は、『スター・ウォーズ』について、音楽が多すぎるとジョージ・ルーカス監督に意見を述べています。このクロサワ・チャイルドが「子どもが見るのでわかりやすくしました」と答えると、「子どもを侮辱しちゃいけない。子どもはそんなことをしなくてもちゃんとわかるんだ」と反論しています。日米の映画でBGMのつけ方が違うことは確かです。米映画は主題曲がさまざまなシーンに合わせた変奏で流れます。一方、日本映画はシーンの転換の際に挿入されます。ジブリは同じ映画であっても日米で異なるサウンド・トラックを使っています。それはさておき、黒澤監督は子どもを決して受動的とは捉えていません。子どもは十分に能動的であり、自分の思いこみで映画の可能性を狭めるべきではないというわけです。

     

     黒澤監督のように、むしろ、子どもを能動的と捉えるべきでしょう。児童文学は、そうであるなら、子どもと大人が相互作用して成り立っています。それが児童文学の可能性です。児童文学を通じて大人と子どもが物語を共有するのです。読書の環境がない場合、子どもがその意義を見出すことは難しいことは否定しません。でも、その習慣があるなら、そうした共有があり得るのです。

     

     読み聞かせを考えてみましょう。もちろん、子どもが聞きたがっていることが前提です。大人は自らの解釈で読み始めます。子どもの反応を見ながら、読み方を修正します。時々、子どもは物語について大人に話しかけます。大人は子どもが納得できるように答えようとします。理解して話に戻るときもあれば、さらに質問するときもあるでしょう。そういうことが繰り返されているうちに、物語が終わりを迎えます。その後も、しばらく感想や意見を子どもと大人は語り合うのです。その作品を次に読むとき、それはもう以前のままではありません。大人は子どもの解釈に、子どもは大人の解釈にそれぞれ影響されます。この二人で過ごした時間が思い出になり、それもまた作品を構成する要素です。作品は読者から影響を受けるのです。

     

     読書の主導権はあくまで子どもにあります。自分で読めるようになってもそれは変わりません。ですから、児童文学は、一般書籍と違い、読者研究が欠かせません。子どもはどのように本を読むのかという問いに、経験詩学だけでなく、発達・認知心理学や保育・教育学の成果も参考にしています。読書が嫌いな子どもがいたとしても、それをその子のせいにしたり、「活字離れ」や「娯楽が多すぎる」などとき代や社会のせいにしたりすることは大人には許されません。それは読書を強制したり、十分な選択肢を与えなかったりしたためかもしれません。読書の魅力はテレビやマンガのそれと違うのです。

     

     少なからずの人にとって最初に出会う文学は児童文学でしょう。児童文学は文学のすそ野を広げる役割を持っています。それは文学の定型を示します。設定やキャラクターが奇抜であっても、物語の構成が定型的です。また、内容はナンセンスな詩でも、文学の形式が安定しています。安心して読めるのです。児童文学の魅力としてしばしばワクワクしたり、ドキドキしたりする想像性が挙げられます。それも確かです。けれども、構成の定型が安定して支えているからこそ、それが効果的に働くのです。この定型によって大人と子供が児童文学を共有できるのです。児童文学が定型の大切さを忘れ、先鋭的なったとき、文学の土壌はやせ細ってしまうでしょう。児童文学は今日において文学の原点であると共に、その広がりをもたらすものなのです。

     

     忘れていますが、大人は子どもからのプロセスを経てその姿があるのです。児童文学を読み、子どもと語り合うとき、自分自身のたどってきた過程を思い出します。それを確認するなら、自分の考えが相対化されて見方が広がり、成長していきます。確かに、児童文学は子どもによる、子どものための、子どもの文学ではないのです。

    〈了〉

    参照文献

    安達まみ、『くまのプーさん 英国文学の想像力』、光文社新書、2002

    西村雄一郎、『黒澤明と早坂文雄』、筑摩書房、2005

    日本児童文学者協会編、『子どもと本の明日』、新日本出版社、2003

    ピーター・ハント編、『子どもの本の歴史』、さくまゆみこ他訳、柏書房、2001

    ピーター・ホリンデイル、『子どもと大人が出会う場所』、猪熊葉子監訳、柏書房、2002

    -マーガレット・ミーク、『読む力を育てる』、こだまともこ訳、柏書房、2003

    ジャクリーン・ローズ、『ピーター・パンの場合─児童文学などありえない?』、鈴木晶訳

    ジャンニ・ロダーリ、『幼児のためのお話のつくり方』、窪田富男訳、作品社、2003

    ヴィクター・ワトスン&持ラグ・スタイルズ編、『子どもはどのように絵本を読むのか』、谷本誠剛監訳、柏書房、2002

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