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    自尊感情と遊び

    • 2012.07.19 Thursday
    • 22:25
     自尊感情と遊び
    Seibun Satow
    Jul, 19. 2012

    「逃げるが勝ち」。

     神谷栄司京都橘大学教授編纂の『子どもは遊べなくなったのか』(2011)によると、最近、ルールの下で勝ち負けを競う遊びをできない子どもたちが目につくようになっています。「遊びの根幹であるルールをめぐって、異変は起きている。遊びグループの中で比較的に力の強い子どもが、自分の負けがはっきりする直前に、負けないようにルールを勝手に変更してしまう。その結果遊びは崩壊していく。他方、種々の発達障害の疑いのある幼児たちも独特な形で『遊びにくさ』のなかにある」。

     ところが、そんな子どもであっても、ごっこ遊びは楽しめるのです。ままごとのようなイメージの遊びは3歳児ぐらいから見られます。想像力を働かせて、対象を見立てたり、場面を設定したり、役割を演じたりすることで、行動ルールや表現力が身に付きます。こうしたごっこ遊びは時代が変わっても、人気は依然として維持されているのです。

     しかし、そうなると、このアンバランスさが不可思議です。勝負事の遊びもごっこ遊びも人間の文化にはどちらも必要ですし、優劣もありません。遊んでいる子どもの光景に一方では破綻した有様、他方で昔と変わらぬ姿も見られるのです。なぜと問わずにはいられません。

     最近の子どもの傾向や特徴に関する報道や指摘には注意が必要です。特定イデオロギーに基づく教育改革を行いために、問題化されることが少なからずあるからです。権威主義者が教育改革の理由として社会混乱を挙げるのは常套手段です。

     遊びに関する古典的分類としてシャロッテ・ビューラー(Charlotte Buhler)による次の四種類がよく知られています。

    機能遊び(Functional Play)
    がらがらなどの感覚遊びとブランコなどの運動遊び
    想像遊び(Imaginative Play)
    ごっこ遊び
    受容遊び(Receptive Play)
    読み聞かせや人形劇などの鑑賞遊び
    創造遊び(Creative Play)
    積み木や織り紙などの構成遊び

     この分類には勝負事の遊びが入っていません。発達の際、人間は真似ることを競うことより先に始めます。模倣は社会的学習の基礎です。真似るには自分と他者の違いが意識されていなければなりません。競争するには、そこからさらに基準に照らし合わせて自分と他者を比べる認識が必要です。遊びも真似るものが先で、当然、競うものは後です。乳幼児の遊びを対象にした場合、競争は優先されません。

     共通のルールに従って勝敗を競うゲームも基準が主観的なのか客観なのかという点から分類できます。前者の代表がにらめっこ、後者はじゃんけんです。

     「にらむ」が相手を威圧する行為であるにもかかわらず、笑ってしまうという遊びには、精神的発達が不可欠です。表情の記号としての意味が理解できていないと成り立ちません。ただ、何をもって笑ったと判断するかは客観的ではなく、曖昧です。

     アメリカの黒人文化に「ダズンズ」という遊びがあります。二人向かって、悪口を言い合う言葉のボクシングです。怒り出したり、言葉につまったりしたら負けです。通常は観客が周りにいて、審判の役も兼ねています。これなどはにらめっこと同様の基準に基づく遊びです。

     一方、じゃんけんの勝ち負けの基準は客観的です。グーはチョキより強く、チョキはパーより強く、パーはグーより強いのです。これは誰にとっても不可侵です。

     こうした勝敗の基準が客観的な遊びは相手の裏をかくゲームです。勝負事では、実際には、心理戦の占める割合が高いものです。相手の手の内を読み、自分をどう考えているか推察する必要があります。こういった心理戦はじゃんけんだけでなく、広く遊戯やスポーツ全般に見られます。のみならず、娯楽を超えて、政治・経済・社会の広範囲で相手の裏をかくことが行われています。それを体系化したゲーム理論も発展しています。

     ヨハン・ホイジンガは、『ホモ・ルーデンス』において、人間の本質を遊ぶことに見出しています。彼の想定したのは一人遊びよりも、むしろ、こういった心理戦の伴う遊びです。遊びの持つ想像力の作用が人間をここまで進化させてきたというわけです。

     余談ですが、心理戦はコンピュータにとっても難問です。チェスや将棋、囲碁の電脳名人の開発が進んでいます。かつてコンピュータは心がないので心理戦に有利だとされてきましたが、実際には逆の結果が出ています。コンピュータは相手が押せば引くし、引けば押します。盤面が有利であるのに、相手がわざと引いたとします。すると、コンピュータはそれをミスと判断し、罠に引っかかってしまうのです。

     勝敗を競う遊びができない子どもたちは共通のルールに従って相手の裏をかくゲームを楽しめないということなのでしょう。

     ルールの実践と意識の発達はジャン・ピアジェが提示した段階論が知られています。このスイスの心理学者はルールの実践に関して次の四段階を見出しています。

    運動的個人的段階
    自分の思うままに遊ぶ
    自己中心的段階(2~5歳)
    規則の例を模倣して自分流に利用する
    協同が生まれる段階(7~8歳)
    友だちに勝とうとする
    規則の制定化の段階(11~12歳)
    規則を尊重する

     なた、意識については次の三段階を想定しています。

    個人的な規則しかない段階
    規則は強制力を持たないもの
    規則を絶対と捉えている段階(4~9歳)
    規則は大人から与えられるもの
    規則を変えられると考える段階(11歳以降)
    規則は相互の合意に基づくもの

     勝負事ができない子どもは、こう考えると、実践と意識の発達段階がずれていることがわかります。友だちに勝とうとする段階では、ルールを絶対視するはずですが、強制力を持っていないと意識しているのです。

     こうした現象の理由はさまざまに考えられます。大人社会の変化もその一つです。子どもの心理には、カウンセリングの報告が伝えているように、思っている以上に、大人の影響が大きいのです。グローバル化に伴う国際競争の激化により、成果主義やルール違反の傾向も目立つようになっています。ここから子どもの規範意識の低下の理由を探ることも可能です。

     いい大人であれば、ゲームで負けた場合、相手をほめるか、自分を責めるかが通常の反応でしょう。その時は確かに悔しくても、成長上の途中結果と考えるものです。相手の裏をうまくかけずに今回は負けたけど、次回はそれを生かして勝ってみせる。そんな思いで工夫して勝ち負けを繰り返しているうちに、技能が上達していくものです。初心者であれ、上級者であれ、手順や操作がルール上共通ですから、成長具合もよくわかるものです。とは言うものの、ゲームに強い人もいれば、弱い人もいます。しかも、それは人格全体を表わしているわけではないのです。勝ち負けよりも、その場を楽しむことに意義を見出します。こうした心のゆとりが大人の作法というものです。

     規範意識の低下も重要ですが、自尊感情の低下から考えることも必要です。林泰成上越教育大学大学院教授は、心理カウンセラーと道徳教育の専門家としての経験から、自尊感情の弱い子が増えたと指摘しています。「自尊感情(Self-esteem)」は「自尊心(Pride)」と違います。両者を分かつのはフリードリヒ・ニーチェの言う「ルサンチマン」の有無です。

     前者はルサンチマンなく、ありのままの自分を受け入れる心情です。他方、後者は他との比較によって自分の優越感、あるいは自意識の優位性を感じようとするルサンチマンです。自分自身を大切に思う気持ちが弱く、「どうせ自分なんかダメさ」と投げやりです。ところが、それと反対に、自尊心の方がやたら強いのです。自尊感情の不足を自尊心で補っているとも言えます。自尊心がパンパンに膨れ上がり、ちょっとした刺激で破裂しそうな小さな風船能のようになっています。自尊感情が育まれて、自己理解・他者理解・相互理解が促進されれば、ルール尊重の態度も育つものです。

     林教授の研究は小学生以上を対象にしています。神谷教授等のそれとはフィールドが違いますので、一概に直結することはできません。林教授は、最近の子どもたちの特徴として、他に「規範意識の低下」や「人間関係力の低下」を挙げ、それも「自尊感情の低下」から派生していると指摘します。小学生以上のこうした特徴が入学から突然生じるとは考えにくく、神谷教授等の研究と関連させることは十分意義あることです。

     負けを認めないとはあるがままの自分を受け入れられないということです。ルール破りの子でもごっこ遊びができる理由にも自尊感情の低さから説明できます。その想像された世界である役を演じているのであって、それは自分自身ではありません。あるがままとして現われた自分を受容しなくてすむのです。

     ごっこ遊びの意義を否定しているわけではありません。ごっこ遊びには、すでに述べた通り、重要な教育的作用があります。また、その延長線上にあるロール・プレイングは道徳教育や心理臨床の場で広く用いられています。ごっこ遊びやロール・プレイングは、社会性の発達や他の人の気持ちの理解などの教育的効果が認められているのです。他者の心の動きを体験して感性を耕すわけです。ロール・プレイングはコンテクストを認識したり、相手の気持ちを察したりしなければ、続けられません。勝負事よりも繊細な気配りが要ります。

     ただ、相手の裏をかく必要はありません。日本の「テレビ・ゲーム(Video Game)」は、他国と違い、ロール・プレイング・ゲームの人気が高いことで知られています。携帯端末も含めてモニター型のゲーム市場では真似る遊びのニーズが北米よりはるかに大きいのです。勝負事では合理的思考が不可欠で、理性が求められます。一方、RPGは、感性を磨き、社会的もしくは個人的な価値観を体験します。価値観の共有が成立条件で、それはコミュニティづくりを意味します。そこは自分の価値観が守られる「心の居場所」となり得ます。

     もちろん、これはあくまでも作用で、RPGの日本の愛好家は自尊感情が低いと言っているわけではありません。また、ウルティマを始めとして道徳性の向上を加味したRPGも多数あります。テレビ・ゲームに対する世間の風当たりは強いですから、公序良俗に反することには業界も敏感です。

     一方、勝負事はルールの共有に基づいています。そのルールを守りさえすれば、価値観は問われません。異なった価値観が共存するトラフィックを形成できるのです。勝負ゲームは勝者と敗者を生み出しますが、別々の価値観が共生することを探る際には示唆を与えてくれるのです。

     現代社会における最重要の理念として「公正と寛容」が挙げられます。今の世の中には、ルールが特定の価値観に利用され、参加者をそれに従わせることができるのだから、その制作者が優越していると考える風潮もあります。神になれると思うわけです。価値観の確保にルールを悪用する動きがあり、不公正が溢れているので、人々は「公正さ」を求めてコミュニティを形成します。けれども、それを過度に追及すると、その内外でコンフリクトが生じます。そこで必要になるのが「寛容さ」です。異なった価値観同士が寛容さを尊重して共存するのです。

     子どもたちの遊びをめぐる異変は、彼らだけでなく、大人も含めて自尊感情のありようがどうなっているのか考える契機と捉えるべきでしょう。自尊感情を自虐や負け犬根性と誤解していたり、自尊心と混同していたりする歪みが大人の間にはびこっていては、子どもたちの精神の発達を病的にしかねません。自尊感情を健康的に育むこととは何であり、どうしたらいいかについて真摯に向き合う姿勢が大人に必要なのです。
    〈了〉
    参照文献
    神谷栄司編、『「子どもは遊べなくなったのか」、三学出版、2011年
    林信二郎他、『幼児の教育と保育』、放送大学教育振興会、2004年
    林泰成、『道徳教育論』、放送大学教育振興会、2009年
    ヨハン・ホイジンガ、『ホモ・ルーデンス』、高橋英夫訳、中公文庫、1973年
    佐藤清文、『自尊感情と自尊心』、2012年
    http://www.geocities.jp/hpcriticism/oc/sep.html

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