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    戦没者慰霊は国民国家の宗教である

    • 2012.07.31 Tuesday
    • 22:03
     国民国家の宗教
    Seibun Satow
    Aug, 01. 2012

    「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」。
    寺山修司

     戦没者慰霊は国民国家の宗教である。国民国家体制では、時代や国によって解釈の違いが見られるものの、政教分離が採用されている。前近代において政治と宗教は関連している。邪馬台国の女王の卑弥呼はシャーマンだったと思われているし、平安時代、宮中では仏事が毎日のように執り行われている。国民国家において、祭りごとは政からと区別され、神政政治は否定される。それに代わる世俗主義が政治と宗教の適切な関係と認められる。権利の中で世界中の現行の憲法が最も採り入れているのが信教の自由である。公私は区別され、内面の自由は保障される。けれども、その世俗主義の宗教が英霊の追悼である。

     国民国家は国民によって統合された国家であるが、その「国民」に関する理解は時代と共に変遷している。フランス革命期には、それは言語共同体であったけれども、現代では素朴すぎて通じない。儀礼の変更は社会の変化を人々に体感させる。国家は、「国民」という共通意識を形成するために、そうしたさまざまな装置を用意している。

     国民国家と宗教勢力が自らの利益のためにお互いを利用することはしばしば見られる。ドイツではクリスマスを家族だけで祝うが、これは近代以降に確立した習慣である。近代的な市民社会の秩序には道徳的な市民形成が不可欠であり、それには家族を中核とする家庭教育が効果的である。キリスト教会は神聖家族、すなわちヨセフ=マリア=イエスの理想を市民に理解させる好機と近代の到来を捉え、働きかけている。

     しかし、国民国家の宗教はこうした政教癒着ではない。国民国家はその支配圏内において至高の存在である。それは死後の世界にまで及ぼうとする。人間における死は二種類ある。自分の死と他者の死である。近代人にとって死は前者であるが、国民意識に利用されるのは後者である。

     国民国家において軍事は戦士身分や傭兵が担当しているわけではない。軍隊は国民によって編成された常備軍である。国民の戦争が国民国家体制の戦争である。国民軍のない近代以前、対外戦争の戦死者全般が共同体の慰霊対象には位置づけられていない。元寇や朝鮮出兵に従軍した武士を当時の権力が英霊とした記録はない。その頃の戦は国民の戦争ではないからだ。

     なお、国民国家の宗教における戦死者は対外戦争の従軍兵に限らない。革命や独立など国民国家体制を確立するための戦争も含まれる。

     死者は死後の世界にいる。既存の宗教では、そこは天国と地獄などの善悪の対立構図によって秩序立てられている。英霊はその差異を超える。けれども、戦没者は国家の大義のために殉じたとして他の死者と区別される。兵士がいかなる理由で死を受け入れたのか、無念のまま亡くなったのかは国家は問わない。さまざまな死があるのに、それが一つの国民国家の神話に編集されてしまう。前近代では死者の扱いを決めるのは、十字軍が最たる例であるけれども、あくまで宗教であって、国家ではない。

     英霊は一般の死者と別の死後の共同体にいる。死後の世界を国民国家がそうやって支配する。慰霊を通じて彼らは国民国家の共通の記憶として認識される。その上で、死後の世界によって国民国家は自らの大義を正当化する。戦没者慰霊を通じて国民国家は自身を支配圏内で超越的存在と国民に刷りこむ。

     戦没者追悼が国民国家の宗教として定着したのは、第一次世界大戦からである。それは人類の経験した最初の総力戦であり、もはや戦争は英雄物語ではない。動員された無名兵士たちが過酷な状況で命を落とし、心や体に傷を負う。儀礼はコミュニケーションの場でもある。慰霊を通じて、戦死者は今に語りかける。その無名戦士は誰もが知っている息子であり、兄弟であり、恋人であり、友人であるかのように生者に感じられる。敗戦国においてもこうした追悼が行われる。確かに、勝利を得ることはできなかったけれども、彼らは国家の大義のために犠牲になったのだとされる。戦没者追悼の儀礼によって死者も生者も共に同じ国民であることを確認する。

     第二次世界大戦以後は事情が複雑になる。戦間期、議会制民主主義が標準化し、参政権の拡大や(日本などを例外とする)国民主権の定着、侵略戦争が禁止される。こうした民主化の進展の一方で、代議制を否定する全体主義も出現する。国際的に正当化するのが困難である戦争の勃発にも世論の動向がかかわってくる。この場合、戦没者は、国家の大義への殉死と言うよりも、戦争責任と向き合いつつ、愚かな指導者や不幸な時代の犠牲者として位置づけられる。この認識は第二次世界大戦からベトナム戦争やアフガニスタン戦争を経て現在に至るまで続いている。

     ただし、20世紀以降の戦争の死者は軍人だけではない。第二次世界大戦の犠牲者は全世界で約6000万人と推定されているが、そのうち4500万人が民間人である。兵士よりも市民の死者の方が多い。批評家佐藤清文の祖父のような職業軍人が生き残り、生後間もない赤ん坊が命を落とす。そんなことが起きている。総力戦の経験後、軍人と民間人の犠牲者を区別することはできない。

     国民国家において戦争による死者を忘れることは許されない。死者にとって大切なのは生者が自分を覚えていることである。けれども、その記憶は次第に薄れていく。忘却は生者の精神の健康にとってはやむを得ない。しかし、戦没者の場合は違う。生者は、知遇でなくても、忘れてはならない。内面の自由を保障する国民国家の戦争はここまで人間の心理に立ち入る。

     そうした戦没者の追悼施設は、国民国家において、最も神聖な場所である。聖地として超越的であるために、既存の宗教色を抜いていなければならない。国民国家は神の死と共に出現している。その施設での儀礼を執り行えるのは国民国家の宗教の聖職者、すなわち政治家である。

     8月は、日本において、戦争を考える季節である。それは国民国家体制の暗黙の前提を吟味する本質的な問いかけをも含んでいる。その考察はこれからの社会のありようにもつながる。
    〈了〉
    参照文献
    子安増生編著、『心が生きる教育に向かって─幸福感を紡ぐ教育学と心理学』、ナカニシヤ出版、2009年

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