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    かすかな優越感

    • 2012.10.04 Thursday
    • 06:53
     

    かすかな優越感

    Seibun Satow

    Oct, 03. 2012

     

    “Kurosawa should be the first film maker to be given the Nobel Prize”.

    Francis Ford Coppola

     

     ここ何年か10月を迎えると、新聞紙上で村上春樹に関する記事が増える。10月はノーベル文学賞が発表される。世界的に読まれているから、記者たちが村上春樹は受賞するかもしれないと期待しているわけだ。諸外国の文学者から日本は文学ではなく、文学賞の国だと揶揄されることがある。まさにその一端が垣間見られる状況である。

     

     世界的にどれだけ読者を獲得しようとも、村上春樹は文学史から見れば存在が小さい。これは大江健三郎と比較すると分かりやすい。大江は戦後文学の諸問題を作品にとりこみ、そこから多くの批判者や後継者が生まれ、系譜を形成している。村上春樹もその一人である。社会の矛盾に心のうずきを感じながらも、政治や経済にはテクノクラートへのおまかせ意識が強く、保身的である70年代後半の都市住民の産物が村上春樹だと言える。しかし、村上春樹からは、批判的にも含めて、継承する作家が登場していない。

     

     村上春樹は好き嫌いが割れる作家である。好きな人は好きだが、嫌いな人は嫌いで、両者の間で理解が成り立たない。愛読者にその理由を尋ねても、「理屈じゃない」とか「言葉で言い表せない」となどの答えがしばしば返ってくる。自分の認識を相対化できず、言語によって他者に説明できない。これは判断が主観にのみ基づいていることを著わしている。愛読者は、当然、村上春樹への批判に聞く耳を持たない。無視するか、しろうと理論でもっともらしく正当化するかが関の山である。

     

     村上春樹の一文の持つ情報量がスカスカで、内容に比して分量が多く、掛け合いの会話が繰り返される特徴がある。文学ジャンル論で言うと、ロマンスに当たる。これはもう一つの世界を舞台とする。神々の物語である神話とは異なり、近代小説と神話の中間に位置する。歴史小説や冒険小説、ファンタジー、ミステリー、SF、ホラーなどはこのロマンスに属している。作者の描き出す登場人物は現実の人間ではなく、願望の分身、すなわちアバターである。性格よりも個性に関心が向けられ、ロマンス作家は大胆である。作品の傾向は内向的・個人的であり、扱い方は主観的で、願望充足がこめられている。近代以降はアイロニーが基調だ。登場人物は複数の世界を渡り歩ける選ばれた者であり、しばしば英雄的・超人的であるが、精神的な深みに乏しく、作者の操り人形にすぎないことも少なくない。構成は慣習的で、秩序立てられ、安定している。始まりに終わりが提示され、その目的に向かって話が展開される円環構造をしている。すべての要素はそれを実現するために従属している。作者にとって、曖昧なものや無駄なもの、意に沿わないものは除外され、因果関係が叙述される。

     

     村上春樹の奇妙な設定は、その驚きによる読者との意識共有に利用しているだけである。情動への異存は最も安易な表現手法だ。これを形式化してしまえば、作品構造は至って古典的である。そこで前提とされる思想は世間に浸透した通説であるが、専門的にはすでに見直されたり、廃棄されたりしてるものほとん願望を優先させるあまり、思いこみや思いつきだけで書かれている。ただ、ばかばかしいほどの不適切に溢れていても、その願いに共感する読者無批判的に受容する。

     

     村上春樹は無意味の文学に要約できる。社会的・歴史的に共有された価値観の認める意味に対して無意味さをアイロニーによって示す。世界は意味=無意味だけではないが、村上春樹はそう認識している。作品には数字が頻繁に表われるが、それらに意味はない。また、フランツ・カフカやジョージ・オーウェル、『ノルウェイの森』など過去の作家や作品に言及されていても、口実にすぎない。

     

     しかし、村上春樹は無意味だと声高に主張することはしない。控えめでさえある。読者に強い印象を与えよう、あるいは感化させよう、影響を及ぼそう、変化を促そうという傾向は認められない。けれども、他者の感情に応えよう、あるいは言い分を理解しよう、自分の考えを筋道立てて伝えようという努力も見られない。自分の感情にしか興味が実質的にない。好きか嫌いか、受け入れるか受け入れないか、認めるか認めないかが穏やかに語られる。外界に対して中立的でありながらも、批判的で、かすかな優越感が漂っている。自己中心的であるが、対立解決の手立てを持たないため、発達心理学におけるある段階の心理をよく描いているという評価も可能になる。客観性を無意味と排除しながら、自分の主観的判断には非常に細やかで、はまる人ははまる。

     

     価値判断が展開される作品は読者の好悪が極端に割れる。出来事に関する表現と読者の反応は次の四種類に分けられるが、それを使って解説してみよう。もちろん、実際には純粋型としてだけでなく、混合型も見られる。

     

     第一は事実記述である。いつ、どこで、誰がかかわり、何が起きたかという情報の伝達である。描写もこれに含まれる。こうした文章に接した読者は事実を認知する。

     

     第二は原因分析である。出来事に関する原因や因果関係、メカニズムの解明がこれに当たる。読者の反応は理解となる。

     

     第三が背景洞察である。出来事をもたらした背後関係や潜在的構造、今後の展開を探ることだが、行き過ぎると、陰謀論となる。読者は出来事をめぐって発展的な考えを抱くため、その反応は想像である。

     

     第四が価値判断である。それは、出来事について「嫌な光景だ」や「下品な連中だ」、「あんな所には行きたくないな」など感情的な評価を下すことである。こういった文章に対する読者の反応は共感である。

     

     村上春樹の文学は最後の価値判断に覆われている。前者三つでは評価しようがない。村上春樹は、それに比して、出来事の一つ一つに細やかに価値判断をする。ただ、価値判断は外向的と内向的に分類できる。前者は自分の属する社会や共同体のイデオロギーや思想信条等の援用であり、後者は個人的経験・記憶・嗜好などに基づいている。

     

     村上春樹はこの内向的価値判断を控えめに続ける。それは文学者として矛盾に溢れる社会にあって黙々と自らの務めを果たそうと自己犠牲的であるかに見える。作品にも、そういう人物が登場する。ブログをざっと見ても、多くで愛読者の評価も登場人物・集団の価値判断に焦点が当てられる。しかし、実際にはその価値判断は独りよがりでしかない。

     

     『かえるくん、東京を救う』((2000)という短編小説がある。東京の地下に棲む大みみずくんが、阪神・淡路大震災に刺戟されて、地震を起こそうとしているのを知ったかえるくんがヒロイズムによって片桐さんと共に戦い、東京を救うという寓話である。ただし、想像力の戦いという夢の物語であろうと暗示されている。これは非常に評価が高く、内田樹神戸女学院大学名誉教授は村上春樹の最高傑作とまで賞賛している。

     

     しかし、この作品は阪神・淡路大震災のもたらした認識の転換をまったく踏まえていない。こともあろうに、多数の死傷者が出た大震災を口実にしている。かつて人々は「関西にも大きな地震がやってこない」と思いこんでいたが、この地震はそれを覆している。その知識には小説を含めた大衆文化の影響も認められる。そこで描かれた地震は関東・東海地方が中心である。専門家はこうした信念に危機感を覚え、関西地震の可能性を警告するため、1995117日に大阪で日本地震学会を予定している。それはまさに震災当日である。発生後、「もし東京で同じような大地震が起きたら」とワイドショーが放映したら、「また東京かよ」と不満が関西から寄せられている。大震災から人々は日本ではどこでも地震が発生すると認識を改める。ところが、村上春樹は大震災の後にまた東京の地震を扱っている。大震災の社会的な意味がわかっていない。

     

     しかも、大震災を契機に、ボランティア活動が色眼鏡で見られることがなくなり、市民の社会参加・貢献への意識が高まっている。以後、請願の署名や非相乗り候補の選挙キャンペーンへの参加など地方政治の関与から始まり、国政選挙にも関心が広まる。大震災を経験して、市民は70年代後半の意識から脱却し、社会貢献・参加への協同的意欲に目覚めている。想像力はインセンティブによって働く。善悪二元論に囚われず、よりよい社会を協力してつくっていこうという協同性を実践している。大震災による市民の意識の変化を村上春樹は見ていない。

     

     この二つの認識転換は被災者以外も覚えたことである。『かえるくん』を書く方も書く方だが褒める方も褒める方だ。

     

     同時代的文学には、生き難さや重苦しさ、騒々しさといった時代の漠とした気分を作品に内的経験としてとり入れることが欠かせない。けれども、今を生きているのだから書けばそれが具現できるというものでもない。時代を口実にしたにすぎない。日本は、「中流社会」や「格差社会」などが示しているように、生活意識が社会意識としてそのまま把握され、そこから課題されるべき政治的・経済的課題が見出される。他方、民族や宗教、階級などで分化がある社会では、マレーシアのプミプトラ政策が物語る通り、この流れが成り立たない。日本においては、気分をとりこむには、社会変動の過程で共有経験される意識変化を表現として構成させる必要がある。

     

     もっとも、社会性に立脚した批判は村上春樹ならびにその愛読者にとってはのれんに腕押しといったところだろう。彼らは従前の価値観への違和感を共有しているため、それらに依拠していては、判断が覆るわけではない。ポストモダン状況は文学に何でもありの意識をもたらす。とは言うものの、何らかの共感を得なければ、その作品は消え去る。文学表現はコミュニティづくりと化す。村上春樹はこの状況において最も成功した作家の一人である。

     

     新しい表現もなく、知的に幼稚で、プロファイリングも甘くて、恣意性に満ち、下準備も不十分、社会性も乏しい。読者の持つ文学上の意識は村上春樹のこうした欠陥も保留にする。多少の差はあっても、概して現実と作品世界が遠い。凡人小事の近代小説では、現実と作品世界をいかに近づけるかに作家は格闘する。真の主役は近代社会自体であり、それに向き合い、変化しつつある意識を抽出することで新たな表現が生まれる。現代小説では、相対化の著しい現代社会が真の主役であり、方法論を開発せざるを得ない。それは、懐かしいものほど新しいという逆説から、文学を別次元に置き、現実に距離をとることも正当化する。こうした作品は読者の間で形成されてきた文学上の意識に依拠する。それに対するアイロニーを入れれば、活字好きほど驚き、飛びつく。考えていると自認する人はアイロニーにはまりやすいものだ。けれども、自身の認識を相対化すれば気づくことだが、現実作品と世界をめぐる新たな読者の意識を創出するわけではない。

     

     こうした態度は既存の価値観に従属していないが、アイロニーである限り、依存している。従前の価値観に対する衝突・修正・克服は、葛藤・消耗・挫折と無縁ではいられない。一方、無意味の主観的判断は、かすかな優越感を保ち、決して傷つくことがない。社会の激変の中で煩わしさに悩む読者にはありがたい。読者もかすかな優越感に浸ることができる。そのため、村上春樹の共同体はこれからも世界的に拡大していくだろう。

     

     人々は311を経験し、社会的・歴史的に共有されてきた物語が欠かせないものだったと気づいている。与えられた価値判断に依存するのでも、誰かの主観的価値判断に染まるのでもなく、従来を踏まえつつも新たな価値協創がこれからの社会の建設につながると意識共有している。かすかな優越感から新しい社会は生まれない。文学も同様である。だからこそ、村上春樹に対する批判者の姿勢が厳しくなる。

    〈了〉

    参照文献

    内田樹、『村上春樹にご用心』、アルテスパブリッシング、2007


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