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    ネットは政治を変えるか

    • 2012.12.22 Saturday
    • 18:16
     

    ネットは政治を変えるか

    Seibun Satow

    Dec, 21. 2012

     

    「インターネットには情報があふれていると言いますね?それは嘘です。私が見てもわからないものがそれこそ山ほどあります。私がわからないものは情報ではありません」。

    河合明宣

     

     インターネットが選挙運動の際に最初に注目を浴びたのは2000年の米国大統領選挙である。80年代に公民権を獲得した若年層、すなわちジェネレーションXがブログやメーリング・リストなど新たなウェブ・サービスを活用して、政治参加する。これは世間を驚かせる。従来、この世代は三無主義のしらけ世代で、TVゲームに遊び耽るだけ、政治に興味がないと思われていたからだ。

     

     「ジェネレーションX(Generation X)」という名称はダグラス・クープランドによる同名小説に由来する。この作家はマガジンハウスで働いていた経験があり、『ジェネレーションX』は田中康夫の『なんとなく、クリスタル』のリメークと言っていい作品である。

     

     しかし、ジェネレーションXは、全般的に、リベラルであり、政治に背を向けてきたわけではない。このリベラルは国家ではなく、市民社会に基礎を置く多元主義である。彼らはネットの理念「自立・分散・協調」を信じ、その実践を試みている。協力を必要とする公共性への関心は以前から持っている。公共性や公益性への貢献に関して並々ならぬ意欲を秘めている。

     

     2000年の選挙の主要な争点の一つに、地球温暖化を始めとする環境問題が含まれている。これは非常に公共性の高いトピックである。ジェネレーションXはこの問題に沈黙を決めこむわけにはいかないと思い、なじんできたネットを利活用して政治にコミットメントする。メールを使って政治集会を呼びかけ、ブログで自分の意見を表明する。インターネットはその出自からも公的情報の共有に適している。先行世代と違うマイ・ジェネレーションの政治活動を展開し、ネット上に建設的な政治議論が満ち溢れる。

     

     この動きは、日本を含め他国にも影響を与える。2000年の長野県知事選挙に立候補した田中康夫がネットを活動に採り入れようとしている。けれども、日本は選挙の規制が厳しく、ネットの活用が制約されている。現状に落胆しながらも、規制が緩和されれば、アメリカのように、ネットによって日本にも新しい民主主義が生まれると期待される。80年代に選挙権を得た佐藤清文という文芸批評家もその一人である。彼は98年頃からそんなことをウェブで非常に楽観的に主張している。

     

     しかし、その予想は外れる。日本のネットには建設的な政治議論以上に、誹謗中傷や根も葉もない噂、恣意的な価値判断、無責任な極論、偏見に満ちた排他的なジンゴイズムなどグロテスクな言説が勢力を伸ばす。それはそもそもネットの理念に反しており、存在意義さえ疑わせるもであったが、当人たちにはそうした自覚もない。ネットは匿名性が高いから、攻撃しても反撃しにくいだろうと言いたい放題だ。ユーザー以外からは2ちゃんねるを代表に醜悪とも害悪とも評される有様である。

     

     インターネットは社会的インフラである。インフラには、交通インフラであれば移動を容易にするように、参加のハードルを下げる機能がある。ネット上の現象の多くは、それならではではない。なくとも起きる事象を増幅したものである。インターネットの情報は玉石混淆だと言うけれども、各種の陰謀論が刊行されているように、出版物も同様である。ネットが示すのは現実世界の拡大された姿である。

     

     ジェネレーションXが展開したネットによる民主主義はアメリカの政治文化の増幅された光景である。幼い頃から政治に関心を持ち、周囲と議論を積み、政治家や行政との直接的対話やタウンミーティングに参加する。そうした文化がネットによって拡張したのがジェネレーションXの活動であって、まったくの無から生まれたわけではない。

     

     実際、その後の米国の政治家のネット利用も従来の活動の延長にとどまっている。身近さを印象づけようとツイッターで支持者に近況報告したり、記者からの質問がないユーチューブで意見表明したり、好感度を上げるためにフェイスブックで写真やコメントを公開したりしている。国防総省がゲーミフィケーションを利用しているのと比べて、ならではの手法というわけでもないが、そこにはネットの影響力をバカにできないという思惑が透けて見える。二大政党はネットから収集できるデータを解析して対策を練り、選挙の際の支持の拡大につなげようとしている。

     

     あのグロテスクな床屋談義は日本の政治文化の増幅された姿である。反撃してこない対象を情動的に攻撃して盛り上がる。情けなくとも、これが現状だ。

     

     今の日本は社会の組織化が未整備である。こうした状況で政治停滞が生じると、代表する者と代表される者との関係が流動的なので、国家と自分を観念論的に一体化させる風潮が生まれやすい。地域コミュニティの結びつきが強かったり、組合の組織率が高かったりすれば、構成員はそこに帰属意識を持つ。政党も安定した支持基盤となり得るので、それらとの関係を緊密にする。個人と国家との直結は起こりにくい。具体的・個別的な暮らしをよくしたいと願うのに、国家は抽象的・一般的である。

     

     日本では政治参加と言えば、投票行動くらいである。しかも、国政選挙が主で、地方選挙となると、当行率が5割に届かないことも多い。選挙キャンペーンや請願書の署名、ボイコット活動、デモ、結社・団体への参加など選挙以外の政治コミットメントは必ずしも高くない。こうした政治参加の特徴から、政治リテラシーの学習や政治的討議のトレーニングはほとんどなされていないと言える。

     

     また、投票行動だけとすると、政治について話すとしても、相手は家族や友人、知り合い程度に限定され、床屋談義の域を出ない。ある極端な考えが浮かんだとしても、さまざまな背景の人と出会い、自分の意見を言い、相手の話を聞く過程を繰り返すことで、修正されていくものだ。そうしたコミュニケーションの機会を持たないと、認識が深まらない。投票行動はマスコミや口コミの情報、実感などを頼りにしていると推察できる。有権者は政治プレーヤーから侮られることになる。

     

     政治参加は投票行動だけではない。選挙は何年かに一度行われる。これだけが政治参加だとすれば、その間はジャン=ジャック・ルソーが揶揄した通り、政治家に有権者は隷属していることになる。また、制度上の理由から世論調査等で示される民意が必ずしも選挙結果に反映されるわけではない。さらに、与党に投票したものの、政府の政策の優先順位に不満を持つこともあるだろう。結果をただ黙って受け入れるのではなく、選挙後にも政治に働きかける必要がある。選挙だけで民主主義がうまく機能するわけではない。

     

     中には、間接民主主義を捨て、普及したネットを使って直接民主主義に移行すべきだという意見もあるが、これは極論である。ネットは現実を増幅させる。既存の民主主義を補完・拡充して効果的にすることに意義がある。人々のレベル以上のことをネットに期待するのは過大評価だ。民主主義が何であり、その手続きを理解しているが、政治リテラシーや議論のトレーニングがないから、それをうまく利活用できない。日本ではこうした内実の伴わない現象が起きる。日本は世界有数のブロードバンド・ネットワークを持っていながら、その利活用の点ではお寒い状況である。直接民主主義と言っても、そもそもわれわれはそんなに賢くはない。ある状況に置かれると、情動にかられ、冷静な判断を失い、大勢に流されてしまう。

     

     この実情では、インターネットが入ってきても、新しい民主主義構築のツールとはなり得ない。グロテスクな床屋談義を招いたとしても不思議ではない。

     

     その状況に変化が見えたのが311である。死者・行方不明者2万人、避難者10数満人をもたらした未曾有鵜の災害・事故により、市民は「自立・分散・協調」の意識を強くする。被災地の復興は遅々として進まず、フクシマは現在も進行中である。ネットで情報を共有し、デモに参加、請願署名にも加わり、意見聴取会にも足を運ぶ。市民が政治を変える際に、ネットは手助けになっている。

     

     政治参加の意義はそれによって市民と行政、政治家、専門家の信頼関係が強化されるからである。フクシマの情報提供の際の噴出したのが政府や専門家に対する市民の不信感である。どんなに科学的に妥当であっても、信用できない人が言えば、信じることはできない。現代社会には政治家も役人も専門家も必要である。ただ、市民との間の信頼感が十分ではない。直接民主制論議が巻き起こるのもこうした既成政治への不信感が一因だろう。

     

     極論は多様なコミュニケーションのフィードバックによって修正される。政治参加が促進されれば、それぞれのプレーヤーの偏りを対話を通じて補正し、信頼関係が強まり、コンセンサスに到達する。信頼感は実際に対話して初めて築けるものだ。ネットはそのための情報の共有や交流の機会のチャンネルを増やすことができ、参加のハードルを下げられる。そこにネットによる新たな民主主義の可能性がある。インターネットは、改めて言うまでもなく、ネットワークである。

     

     領土問題をめぐってまたグロテスクな床屋談義が伸長したが、ネット上が311以前に回帰してはいない。確かに、政治リテラシーや議論のトレーニングが不十分で、ネットでの政治議論は全般的に粗雑・未熟である。ソーシャル・メディアの登場は政治的意見・感想の表明の敷居を下げている。イッターのつぶやきを統計処理して分析することである時間帯のトレンドを知ることができる。しかし、それは政治に関する認識の質を表わしているわけではない。痩せた政治土壌を少しずつ豊かに育んでいくほかない。

     

     検索すると、若者が主催する各種の政治・経済・社会問題に関する建設的な提案や冷静な情報提供をするサイトを発見する。若い世代がインターネットの理念に立ち返り、その上で新しい民主主義構築のためのツールとして利活用しようとしている。彼らはネットによる政治扇動に対する健康的対抗策も講じている。そんな若者がきっと新たな民主主義のネットワークを拡大していくだろう。今時の若けぇ者は捨てたもんじゃない。

    〈了〉



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