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    徳治主義的倫理の時代 「コンプガチャ」問題によせて

    • 2012.05.11 Friday
    • 07:17
     

    徳治主義的倫理の時代

    Seibun Satow

    May. 10. 2012

     

    “How far that little candle throws his beams!

    So shines a good deed in a naughty world”.

    William Shale spear ”The Merchant of Venice

     

     「コンプガチャ」を消費者庁が問題視する態度を表明した途端、201259日、ソーシャルゲームを運営しているDeNAを始め大手6社がこのシステムを5月末で廃止する方針を明らかにする。この動きには、正直、彼らが責任を持った事業展開してきたのかと首をかしげざるを得ない。問題があることは薄々気づいてはいたが、他もやっているし、とりあえず騒ぎになるまで稼いでおこう。そんな思惑が感じられる。

     

     ソフトウェア産業は、世界市場を視野に入れ、技術革新の速度が速い。そのため、安易な規制は成長を抑制することになりかねない。公益性が見込まれる最先端の科学技術を扱っているから、法的規制が厳しく定められていない。けれども、それは無法を容認することではない。責任が伴うのは当然だ。別の施術倫理のモデルが適用されるべきである。

     

     現在、多くの企業は二つの倫理アプローチを採用している。

     

     一つは、コーポレート・ガバナンス型である。株式会社制度の責任はアカウンタビリティによって果さる。それは、主に、経営者が企業の意思決定について株主に対して行うことを指している。株主総会や取締役会での執行役員による説明・報告がアカウンタビリティの実際である。最近では、ステークホルダーもそこに含まれるようになっている。そのことを通じて、企業は法的・道義的責任を考慮し、社会における存在理由を示せる。

     

     もう一つは法令・諸規則の遵守を目的とするコンプライアンス型の倫理モデルである。個人裁量を可能な限り限定し、個別具体的で詳細なルールを基準として、それを組織的監査・統制によって周知徹底させる。コンプライアンス違反を見かけたり、自分の関わることにその疑いを感じたりしたら、内通窓口あるいはホットラインで相談する。

     

     しかし、科学技術の最前線にはこれが適用しにくい。進展する速度が速く、また関連領域が急拡大する。法的規制は事後的に制定されるため、とても間に合わない。拡大解釈に安易に依存すれば、研究・開発を委縮させてしまう。

     

     こういった領域では、消費者を含むステークホルダー間の価値の共有・協創を通じた継続的改善による倫理モデルが適している。価値・原則・許容範囲の明確化して、責任を伴った権限の委譲が必要である。教育・研修を通して理解を深め、各技術者に責任ある意思決定・行動を求める。言ってみれば、「価値協創型」のモデルを採用すべきだ。

     

     コーポレート・ガバナンス方やコンプライアンス型が法治主義的だとすれば、価値協創型は徳治主義的である。前者が性悪説を前提にするのに対し、後者は性善説に立脚する。

     

     徳治主義的倫理モデルの必要性は、法治主義の限界に起因する。人間の本姓についての楽観的見通しや信頼によるものではない。実際、性善説で臨まざるを得ない場面が増えている。

     

     国際環境条約は締約国に対して性善説をとっている。温室効果ガスの排出量の削減を各国に義務化し、罰則を規定しても、批准しない、もしくは途中で離脱するのであれば、効力がない。条約に批准したのに、達成できなかった際には、国益よりも人類益のために調印したとしてやむを得ない事情があったと好意的に受けとめる必要がある。国家を超える強制力を持った組織体が存在しない以上、性悪説に基づく法治主義は現実的ではない。

     

     このように、理想主義ではなく、現実主義として徳治主義的倫理モデルが採用されている。性悪説に則って法的規制を厳しくすれば、違法・脱法行為をなくせるわけでもない。近代刑罰論の父チェーザレ・ベッカリーアヤは刑罰による犯罪予防の限界を認めている。その上で、『犯罪と刑罰』(1764)においてこう結論づける。「犯罪予防のもっとも確実で、しかし同時にもっとも困難な方法は、人々を悪い方向におもむかないような性質にすること、つまり教育の完成である」。

     

     これは極めて現実味を持った指摘である。科学技術の最前線に立つのであれば、有徳の士とならざるを得ない。徳なき着、科学技術に携わるべからず。科学技術を進展させたいのであれば、ジェダイを育成する制度を整備する必要がある。現代はそんな徳治主義的倫理が求められる時代でもある。

    〈了〉

    参照文献

    梅津光弘、『ビジネスの倫理学』、丸善、2002

    札野順、『技術者倫理』、放送大学教育振興会、2004

    C・ベッカリーア、『犯罪と刑罰』、風早八十二他訳、岩波文庫、1938

    文法とリテラシー・スタディーズ

    • 2012.05.10 Thursday
    • 05:33
     

    文法とリテラシー・スタディーズ

    Seibun Satow

    May. 09. 2012

     

    「日本語人は日本語を無意識に使う。その底には単純で美しい理屈がある。英語人も無意識に英語を使っていて、その底には、日本語に負けない美しく単純な理屈がある。そんな理屈を何とか皆さんに紹介できないだろうか」。

    伊藤笏康『言葉と発想』

     

     表現を始めとする精神的・身体的活動には、組織化されている以上、文法がある。文法のない組織化の活動はない。送り手と受け手との間で文法に関する認識の非対称性がある。もっとも、創作者や鑑賞者が文法を意識していないことも少なくない。それはしばしば黙約である。幼い子どもたちもマンガを読んで楽しんでいる。その際、彼らは文法を暗黙の裡に了解している。マンガは線とコマによって組織化された表現行為である。文法はこの定義から構成される。

     

     文法には通時的・共時的に共有される固有の発想がある。場合によっては、修辞や論理の領域にも及ぶ。この発想がその領域の可能性と限界を規定する。

     

     政治学には政治学の文法、土木には土木の文法、介護には介護の文法、ロックにはロックの文法、園芸には園芸の文法、似顔絵には似顔絵の文法、料理には料理の文法、カーリングにはカーリングの文法がある。それはまだ見ぬ領域も同様である。

     

     もちろん、文法があるとしても、絶対的な文法理論はない。ある事象を説明するのには適しているが、別の場合には苦しいということはよくある。重要なのはモデル化、すなわち明確な原理とそれに基づく総合的な体系の提示である。それがその後の進化につながる。

     

     文法に社会性・倫理性が加味されたものを「リテラシー」と呼ぶことにする。科学リテラシーを例に説明しよう。さまざまな定義があるが、それらを要約すると、科学リテラシーはこのように規定できる。科学的考え方や知識を理解し、それを日常生活等に利活用できる能力のことである。つまり、科学の文法を認知し、それらを社会的・倫理的場面で利活用できる能力が科学的リテラシーだ。文法は技能であり、実践の場面ではそれに社会性・倫理性が必要となる。このように広義の文法がリテラシーである。

     

     その領域の広い意味の文法を理論化し、それに照らし合わせて、対象を批評する。これが「リテラシー・スタディーズ」である。参加型が目指されている今の社会における思考の一つのあり方だ。黙約としての文法を明示化し、社会性・倫理性の中で検討する。それによって、送り手と受け手の間の認識の非対称性を改善し、コミュニケーションを双方向化・ループ化して、価値感を協創していく。それが新たな社会の実現に寄与することになる。

     

     さあ、まだ見ぬ文法書を書いて、批評してみよう。

    〈了〉

    参照文献

    伊藤笏康、『言葉と発想』、放送大学教育振興会、2011

    衆知としての日本国憲法

    • 2012.05.05 Saturday
    • 13:07
     

    衆知としての日本国憲法

    Seibun Satow

    May. 06. 2012

     

    「光りかがやく 新憲法 ソレ

    チョンホイナ ハ チョンホイナ

    うれしじゃないか ないか

    チョンホイナ」

    サトウハチロー『憲法音頭』

     

     ワシントン大学教授デヴィッド・ロー(David S. Law)とヴァージニア大学准教授ミラ・ヴァースティーグ(Mila Versteeg)は、2012年、『ニューヨーク大学ロー・レビュー(New York University Law Review)87号に「没落する合衆国憲法の影響(The Declining Influence of the United States Constitution)」と題する論文を発表する。これは、1946年から2006年までの期間に制定ないし改正された世界188か国の憲法を調べ、権利とその保障に関する項目を比較・分析した研究である。

     

     この比較法学の論文の主旨は、世界の民主主義における合衆国憲法の影響力の没落という現状の説明である。最古の現役の成文憲法であり、長期に亘って、近代民主主義憲法のモデルとされてきたが、1980年以降、世界の流れから取り残され、ガラパゴス化している。

     

     社会の変化に連れ、新しい権利とその保障が生まれて、それが明文化される。同論文では、年代別に、どの権利が憲法上に位置づけられているかが世界全体の比率として記されている。例えば、「信教の自由」は1946年では世界の憲法の81%が明文化し、1976年には88%、2006年に97%へと拡大している。権利にも国際的な長期的トレンドが見られる。

     

     合衆国憲法には、女性の権利や移動の自由、教育を受ける権利、労働組合結成の権利など今では世界の7割以上の憲法に記された権利保障がない。他方、世界の2%の憲法にしか見られない武装する権利が現存している。合衆国憲法はこのようにガラパゴス化している。

     

     合衆国連邦最高裁判事ルース・ギンズバーグ(Ruth Bader Ginsburg)は、20121月、エジプトを訪問し、地元TVのアル・ハヤト(Al Hayat)とのインタビューにこう答えている。「もし私が2012年に新たな憲法を起草するなら、合衆国憲法を参考にしない(I would not look to the US Constitution if I were drafting a constitution in the year 2012)」。同判事は、合衆国よりも、1982年に権利章典を定めたカナダの憲法を勧めている。今から制定するのであれば、世界的潮流に則り、現代的な権利と保障を組み入れた憲法を参考にする方がよいというわけだ。

     

     なお、これはあくまでも権利と保障が憲法上に位置付けられているかどうかであって、実際の運用の有無ではない。

     

     この論文の主旨とは別に、日本国憲法の国際比較の結果が極めて興味深い。日本国憲法は、現在世界で主流とされている権利のランキング19位までをすべて満たしている。これは先に言及したカナダをも上回る。改憲論の中に時代遅れになったという意見があるが、これはまったくの思いこみにすぎない。以下に20位までを挙げておこう。

     

    1信教の自由

    2報道・表現の自由

    3平等の保証

    4私的財産権

    5プライバシー権

    6不当逮捕・拘束の禁止

    7集会の権利

    8団結権

    9女性の権利

    10移動の自由

    11裁判を受ける権利

    12拷問の禁止

    13投票権

    14労働権

    15教育を受ける権利

    16違憲立法審査権

    17遡及処罰の禁止

    18身体的権利

    19生活圏

    20推定無罪

     

     満たせなかったランキング20位が推定無罪というのは、最近のニュースを思い出すと、できすぎた話だ。

     

     なお、よく論議の対象となる九条は、比較法学の観点からは、特徴的ではない。この条文は、実は、第一次世界大戦後のパリ不戦条約に由来する。条約不参加だったスペインが1931年に共和国憲法の中に侵略戦争の放棄を書き記す。これが戦争放棄が憲法上に位置づけられた史上初のケースである。その後、フィリピンが戦争放棄を憲法に採用し、戦後、日本国憲法にも記される。これに類する条文は、今日、世界各国の憲法に見られ、珍しくはない。ただ、条文をどのように解釈・実践していくかは国によって異なっている。世界的に定着が拡大傾向にある概念にもかかわらず、日本国内で改定論議がしばしば起きるのも、また思いこみであるとしか言いようがない。

     

     これだけ現代的な日本国憲法であるが、他に類を見ない特徴を持っている。それは、改正されたことのない現役憲法の中で、最高齢だという点である。つまり、65年前に書かれた憲法が現代を予期していたことになる。

     

     憲法改正は、世界各国で、しばしば政争の具と化している。論議の段階ではお得意の政争の具にしてしまっているが、実際の改定に進まなかったことは日本政治にとって汚点を増やさずにすんだと喜ぶべきだろう。311でさえ政局に走ったことを思い出すがよい。

     

     オールディストでなおかつトレンディーという結果は驚くにあたらない。なぜなら、日本国憲法は衆知の産物だからである。

     

     「押しつけ」憲法といまだに信じている人はもうおるまい。研究者の間で、日本国憲法は日米合作が主流の学説である。まだまだ研究途上であるから、新しい発見があるとしても、この前提が覆ることはまずないと思われる。

     

     その制作過程にこそ、現行の日本国憲法の比類のない新しさがある。それは国際条約の制作過程と類似している。日本国憲法は、制作過程において、異質で多様な人たちの議論や葛藤、妥協がある。通常、憲法は国内法であるから、国内の人たちだけで論じられる。けれども、日本国憲法は外国人も参加している。GHQ、その女性職員、ワシントン、連合国11か国の代表が参加した極東委員会、昭和天皇、政治家、官僚、民間人などが討論し合い、形成されている。日本国憲法は集合知の産物である。

     

     国内には、日本国憲法につながる系譜が綿々と続いている。明治時代、自由民権運動の活動家が中心となって国内各地で私擬憲法が起草されている。非常に革新的なものが多かったが、明治憲法に反映されることはない。また、大正デモクラシーの成果も忘れてはならない。その代表者の一人である石橋湛山は植民地放棄や非武装、地方分権など数々のリベラルな提言をしている。さらに、終戦後すぐに、新たな憲法への提案が政党や民間から沸き起こっている。こうした意見や草案はGHQも英訳して参照している。現行憲法に代わる「自主」憲法制定という主張は、この長きに亘って蓄積してきた誇らしい市井の知恵を無視した言い草だ。

     

     日本国憲法の権利と保障に関する先進性は集合知によってもたらされている。女性の権利をめぐっては、GHQの女性職員が奮闘している。また、義務教育の9年制は地方の教育関係者からの要望である。多種多様な見方が加わっているから、先進さが維持されている。

     

     日本国憲法は国内外の衆知の結晶である。ウェブ2.0を先取りしている。まさに制作過程の先進さがいつまでも新しい所以である。他方、これまで提案された改正案にこの集合知の認識を加味したものはない。

     

     にもかかわらず、作家の東浩紀は、311から必要とされる新たなヴィジョンを示し、従来の護憲=改憲論争にとらわれることのない憲法試案を用意している。起草者には、法学者や経済産業省の官僚が含まれているという。東はかねてよりウェブ2.0の政治への応用を主張している。しかし、彼の私擬憲法の制作過程にはウェブ2.0の姿勢が見られない。それ以前のクライアント=サーバー・モデルそのものである。日本国憲法は、すでに述べたように、依然として先進的である。なおかつ、その体現する衆知は311において最も貢献した姿勢である。日本国憲法に新たな社会に向けたヴィジョンが具現化されている。東は、憲法もウェブ2.0も理解していないとしか言いようがない。東の企ては 映画『メガマインド』におけるタイタンの登場を思い起こさせる。

     

     国際比較をしないまま、思いこみに沿って思いつきで意見を述べたり、議論したりする。日本では、憲法に限らず、選挙制度や議員定数・歳費、地方自治など政治課題をめぐってしばしばこうした短絡さが見受けられる。比較は、それが何であり、何であり得るかを知る有効な方法である。意見を口にする前に、国際比較をして、自らの思いこみ・思い付きを相対化する必要がある。ちなみに、地方議員は、世界的に、名誉職が主流である。必要経費等を別にして、議員報酬は出ない。人口比に対する議員定数も日本より多い。

     

     日本国憲法は口語体で記されている。戦前の法令や公文書は、濁音・半濁音・句読点のない文語体で記されている。日本国憲法制定以降、法令に口語体が採用される。この口語革命は「国民の国語運動」の提案がきっかけである。同組織は、『建議』において、国民にわかりやすいように、口語体の採用や濁音・半濁音・句読点の使用、できるだけ難しい漢語を避けることなどを主張している。「今や新しい歴史の出発点にあたつて、国民に対する国家の期待をあきらかにし、国民の自覚と勇気とをふるひ起こさせる上から、この際、法令、公文書のすがたを一新することは、きはめて望ましい手だてであると信じます」。

     

     国民の国語運動のメンバーに作家の山本有三が含まれている。山本は、実際に、内閣法制局に依頼され、見本として前文を口語体で記した以下の試案を提出している。

     

     われら日本国民は真理と自由と平和とを愛する。われらは、われら及びわれらの子孫のためのみでなく、全世界の人類のために、これが研究と真実とに、こぞつて力をつくさんとするものであつて、かりそめにも少数の権力者によつて、ふたたび戦争にひきこまれることを欲しない。そこでわれらは、国会におけるわれらの正当なる代表者を通じて、主権が国民の意思にあることを宣言し、ここにこの憲法を制定する。()

     

     作家である以上、言葉から憲法を考える。この姿勢が東にはない。これを参考に、法制局の官僚が憲法草案を口語体に改めている。現行の条文を見る限り、基調の点で生かされたと言える。

     

     日本国憲法はこうした衆知の産物だからいつまで経っても新しい。参ある意味で加型民主主義を体現している。しかし、実際の日本社会がその参加型民主主義を実践してきたかと言えば、とても同意できないだろう。日本国憲法は今でも日本社会の向うべき先にいる。

    〈了〉

    参照文献

    古関彰一、『新憲法の誕生』、中公文庫、1995

    佐藤清文、『日本国憲法とその新しさ』、2007

    http://www.geocities.jp/hpcriticism/oc/ncl.html

    David S. Law & Mila Versteeg, ‘The Declining Influence of the United States Constitution’, “NYU Law Review”87, 2012

    http://whatthegovernmentcantdoforyou.com/wp-content/uploads/2012/02/ssrn-id1923556.pdf

    Junji Tachino, ‘Japan's Constitution is still one of the world's most advanced’, AJW by The Asahi Shinbun”, May, 03. 2012

    http://ajw.asahi.com/article/behind_news/social_affairs/AJ201205030054


     

    集合知で見る日本国憲法

    • 2012.05.02 Wednesday
    • 06:49
     

    日本国憲法とその新しさ

    Seibun Satow

    May. 05. 2007

     

    「憲法というのは、この国の『使い方規則』と思っている」。

    森毅『憲法は外注がよい』

     

     日本国憲法が還暦を迎える。人間だったら、日本では、赤いチャンチャンコを着て、みんなからお祝いをされるものだが、改憲を支持する人々がかつてないほど勢いづき、そんな光景は見られない。

     

     マスメディア上で、第九条を念頭に、理念と現実が乖離しているから改憲すべきだと主張している人たちが登場する。

     

     しかし、交戦権を憲法に入れようとしたところで、サンフランシスコ講和条約で日本は国際紛争の解決のために軍事力を行使しないとしているのだから、間の抜けた話だ。憲法はあくまで国内法である。国際条約以上ではない。それは、NPTに加わっているのに、核兵器の保有が可能だと口にするのと同じくらいに愚かである。

     

     こういう意見を発する人たちの顔ぶれには、イラク戦争に肯定的な見解を述べていた人が多いことに気がつく。

     

     この種の似非リアリズムほど危なっかしいものはない。国際的名声と政治的野望を求めて、状況を熟慮せず、性急に軍隊の派遣を判断し、失敗してしまうからだ。イラク戦争に突入したアメリカの指導部は、明らかに、知識と経験に乏しいくせに、専門的・批判的見解を無視している。また、先のイスラエルによるレバノン戦争も同様である。

     

     近代憲法は統治者を縛るものである。日本国憲法は国民の基本的人権を擁護するために、国家の権力的行為を規制し、国家機関にその服従を要求している。そういう制約があるから、慎重に考え、知恵を絞れるというものだ。部下に白紙委任状を持たせて、交渉に向かわせる上司はいないだろう。これは理念以前の利害の問題としてわかることである。それがわからないと指導者だとしたら、したたかさとしなやかさを欠いた未熟者と言って過言ではない。

     

     日本国憲法は近代型であり、実は、現代型も世界にはすでに登場している。ドイツの基本法がその代表例である。憲法自身が価値を主張し、国民にそれへの忠誠を求めている。これは、民主主義的な手続きに則って権力を掌握したナチズムがワイマール体制を破壊した歴史を踏まえている。ドイツの基本法は「自由で民主主義的な秩序」を価値理念と規定し、その内容を連邦憲法裁判所が解釈している。それを侵害する憲法の敵は、個人であれ、結社であれ、政党であれ、基本的権利の剥奪、解散、地位の失効が強制される。現代憲法は、自らの持つ価値を脅かす敵と戦う。

     

     現在発表されている日本国憲法の改定のアイデアには、復古調や新しい権利の追加などのが提示されているが、近代型から現代型への変換は見られない。

     

     憲法第九条は日本を護ってきた歴史的な意義がある。そのおかげで、韓国と違い、ベトナム戦争に自衛隊を派遣せずにすんでいる。サンフランシスコ講和条約を無視して、似非リアリストの言う通りに改憲し、もしイラク戦争を迎えていたら、ぞっとする。犠牲者を出し、中東での評判を落とすだけでなく、失敗の原因までアメリカから押しつけられていたところだ。ちなみに、イラクもサンフランシスコ講和条約を批准している。

     

     今時、押しつけ憲法論を信じているほど無知な人はいないだろう。第二五条の生存権は英米系の憲法観にはなく、ワイマール憲法からの影響である。これだけを見ても、その説に根拠が希薄であるのは明白だ。改憲論者の中には新たな権利の明記を目的としている人たちもいるが、それらはこの画期的な権利を超えるものではない。研究者の間で、日本国憲法は日米合作が主流の学説である。まだまだ研究途上であるから、新しい発見があるとしても、この前提が覆ることはまずないと思われる。

     

     その制作過程にこそ、現行の日本国憲法の比類のない新しさがある。それは国際条約の制作過程と類似している。日本国憲法は、その制作過程において、異質で多様な人たちの議論や葛藤、妥協がある。通常、憲法は国内法であるから、国内の人たちだけで論じられる。けれども、日本国憲法は外国人も参加している。GHQ、その女性職員、ワシントン、連合国11カ国の代表が参加した極東委員会、昭和天皇、政治家、官僚、民間人などが討論し合い、形成されている。日本国憲法は集合知の傑作だ。これらの意見の多くは明治憲法制定時には無視されただけでなく、松本草案の段階でも黙殺されている。これほどの独自性を持った憲法はない。

     

     いわゆる芦田修正によって、憲法第九条は、自衛のための軍備であるならば、実際に持つかどうかはともかく、保持が可能であると解釈できるようになっている。これはすでに極東委員会も気づいている。そこで、2007429日に放映されたNHKの『日本国憲法誕生』でも言及されていたが、ソ連代表が文民統制の条項を憲法に盛りこむことを提案し、憲法第六六条二項にそれが明記される。

     

     自民党の予定している憲法のお粗末さがよく示している通り、ある方向からだけ見られたものはどうしても偏ってしまう。改憲の支持者でも、まさかあの反動的な草案を支持してはいないだろう。今、物事をよくしていくために、多様で異質な人たちの目に触れさせることが欠かせない。日本国憲法はその先駆けである。Web2.0をはるかに先取りしている。

     

     条文以前に、この新しさを超える新しさを提起できないのであれば、後退以外の何ものでもないのだから、変えるべきではない。

     

     今後さらにデジタル技術が進展し、それによる新たな認識から憲法改定試案が提起されるかもしれない。しかし、集合知の成果という日本国憲法の新しさを実践上で超えることはないに違いない。日本国憲法はある歴史的・社会的条件が生み出せた奇跡だからだ。この集合知が日本国憲法が体現する社会像である。

     

     グローバル化する時代にあって、外国人の居住も多くなり、環境問題やネットは国境に縛られるものではない。また、かつては無視もしくは軽視されてきた先住民の権利も世界的に認められるようになってきている。先住民の権利は国民の権利に縛られない。アジアには多種多様な先住民族がいる。一国ではなく、多国間の間で考えられていくべき課題が山積みである。

     

     こうした状況を考慮する限り、改憲を論じるよりも、むしろ、日本国憲法の制作過程を参考にして、アジア共同体の憲法を考える方がはるかに建設的である。日本国憲法の新しさの意義は依然として失われていない。

     

     にもかかわらず、あえてここで「新憲法」を使うのは、そこにはやはり明治憲法とはまったく異なった新しいものを見出すからである。戦争と圧政から解放された民衆が、憲法の施行をよろこび、歌い、踊り、山間の山村青年が憲法の学習会を催し、自らも懸賞論文に応募する姿は、近代日本の歴史において、この時を除いて見あたらない。そればかりではない。制定過程の中でたしかに官僚の役割は無視できないが、つねに重要な役割をはたしたのは、官職にない民間人、専門家でない素人であった。日本国憲法が今日においてなおその現代的意義を失わない淵源は、素人のはたした役割がきわめて大きい(戦争の放棄条項を除いて)。当時の国会議員も憲法学者もその役割において、これら少数の素人の力にはるかに及ばない。GHQ案に影響を及ぼす草案を起草したのも、国民主権を明記したのも、普通教育の義務教育化を盛り込んだのも、そして全文を口語化したのも、すべて素人の力であった。

     かつて米国憲法一五〇周年記念(一九三七年)にあたり、ローズベルト大統領は「米国憲法は素人の文書であり、法律家のそれではない」と述べたが、近代国家の憲法とはそもそもそういう性格を持っている。

     古来、日本において「法」とは「お上」と専門家の専有物であった。その意味からすれば、やはり日本国憲法は小なりといえども「新しい」地平を切り拓いたのである。こう考えてみると、そこに冠せられる名は、老いてもなお「新憲法」がふさわしい。

    (古関彰一『新憲法の誕生』)

     〈了〉

    参考文献

    古関彰一、『新憲法の誕生』、中公文庫、1995

    森毅、『ぼくはいくじなしと、ここに宣言する』、青土社、2006


    科学コミュニケーションと感情知

    • 2012.04.30 Monday
    • 14:15
     

    科学コミュニケーションと感情知

    Seibun Satow

    Apr, 27. 2012

     

    「噺家殺すにゃ刃物は要らぬ。欠伸の三つもすりゃあいい」。

     

    1章 原子力と科学コミュニケーション

     フクシマ発生以来、専門家と非専門家の間でのコミュニケーション・ギャップが表面化している。従来から科学コミュニケーションの必要性は説かれてきたし、その実践も試みられている。けれども、フクシマをめぐる事態に対して、それらが十分に役目を果たしたとは言い難い。

     

     そもそも、科学コミュニケーションの重要性が語られるようになったきっかけは原子力開発である。原子核物理学者のアルヴィン・ワインバーグ(Alvin Weinberg)は、1972年、原発をめぐる受容可能リスク問題を「トランスサイエンス(Trans-science)」の領域と呼んでいる。それは、科学によって問えるが、答えられない問題群の領域である。原子力技術は、万が一事故が起きれば、社会に甚大な被害をもたらす。このような対象を閉じられた科学の知識生産系だけで議論するのは不十分である。開かれた熟議の場で、一般市民のコンセンサスを形成して今後の方向性を決めるべきだ。そうワインバーグは主張する。

     

     科学技術からリスクを完全に排除することは不可能である。それには大きく五つの問題点が指摘できる。第一に、各部分のリスクを分析し尽くしたとしても、非線形の認識から、その総合が全体のそれを表わすわけではない。第二に、装置を操作する人間の要因、すなわちヒューマン・ファクターを無視できない。第三に、統計的推測を根拠にしているので、個別事案に結果がそのまま適合するとは限らない。第四に、それ自身が危険であるため、発生確率を実験的に検証することができない。第五に、装置を取り巻く環境ならびにそれに関連する将来の事態を完全に予測することができない。

     

     このリスク排除の不可能性は、特に、原子力で顕著である。一例を挙げれば、メルトダウンの危険性を確認するために、実際の原子炉で実験するなどできるはずもない。科学技術では、リスクと便益を照らし合わせて、社会がそれを許容できるかどうかが採用の判断基準となる。そのため、科学コミュニケーションが必要なわけだが、日本では肝心の原子力では避け続けてきたのが実態である。そうして形成されたのが「安全神話」だ。

     

     フクシマを踏まえて、今後、科学コミュニケーションの活動が活発化すると予想される。科学技術をめぐる社会関係資本の形成が求められている。少なからずの科学者がよりよい科学コミュニケーションには、研究者の「社会リテラシー」と非専門家の「科学リテラシー」の向上が必要だと力説している。けれども、この問題設定には、二つの疑問がわく。一つは、果たして専門家が十分に科学リテラシーを備えているのかという点である。もう一つは、そもそも社会リテラシーとは何かという点である。

     

    2章 専門家の科学リテラシーは十分か

     科学リテラシーはさまざまに定義されている。それらを要約すると、科学的知識を理解し、それを日常生活などに活用できる能力である。専門家の科学リテラシーにおいて問題になるのは後半部分である。

     

     専門家と市民のリスク認知に関して差異があると各種の調査が報告している。少々古いが、よく引用されるポール・スロヴィック(Paul Slovic)の『リスクのレーティング(Rating the Risk)』(1979)を参考にしよう。原子力発電について、市民が1位と最も高くリスク認知しているのに対して、専門家は20位と低い。他方、X線では市民が22位、専門家が7位である。これを引き合いにして市民の科学リテラシーの不備が指摘される。

     

     しかし、概して、こういう調査では「リスク」の定義が曖昧である。この調査を含めて、心理尺度が採用される。

     

     最もよく知られるリスクの関係式は次の通りである。

     

     Risk=P(x)×M

     

     P(x)は事象の発生確率、Mは「悪影響の大きさ(Magnitudes of adverse effect)」である。リスクを算定する際、その事象が起きる確率だけでは不十分である。損害を考慮に入れなければならない。

     

     原発事故の場合、発生確率が非常に小さくても、損失額が莫大であるため、リスクは大きく算定される。原子炉内の総エネルギー量が巨大である以上、これだけでも破壊力は極めて大きい。燃料プールの使用済み燃料など原発はMが増大する要因はあまりにも多い。先の専門家の回答はMを果たして考慮に入れているかはなはだ疑問である。実際、日本の専門家が原発の安全性を強調する際、発生確率と対策に終始し、被害想定をほとんど口にしていない。無視ないし軽視しているとすれば、保身を除けば、日常生活への活用の点で、科学リテラシーが十分の身についていないことになる。リスクを先の関係式などで定義し、それを明示してその認知を調査得る試みはあまり見かけない。専門家と市民の間のリスク認知の差異を調査する際、心理尺度を採用すること自体が専門家のおごりだと言わざるを得ない。

     

     人はリスクに対して不安感を抱く。これは主観的であり、中には必ずしも科学的根拠があるわけではない。不安とリスクの最も素朴な関係式は次の通りである。

     

     Fear=Risk+Noise

     

     先の専門家にとって、Mを無視ないし軽視し、リスクは発生確率とほぼ等しい。ノイズはあまり入りこまないので、彼らの不安感は発生確率に近くなる。逆に、ノイズの部分に目を奪われて、専門家はしばしば市民を見る。ノイズはいくら分析しても情報がない。専門家はノイズの大きさが市民を怖がらせていると考える。彼らはノイズを取り除き、発生確率を伝えれば、一般人の不安感は減ると思いこむ。その際、自分の科学リテラシーが十分ではないことに気づきもしない。欠如モデルはこうした誤謬に基づいている。

     

    3章 社会リテラシー?

     次に、「社会リテラシー」をめぐる疑問に進もう。それに関する定義は、正直、曖昧である。そういった活動の報告・提言を読んでまとめると、社会の中の科学を自覚し、市民にわかるように語り、科学に何を求めているのかを理解する能力である。要するに、「社会性」のことだろう。しかし、これを「リテラシー」の一種と見なすことは承服しかねる。

     

     社会性に乏しい専門家が少なくないことは確かである。「専門バカ」という悪口もある。ただ、それは近代社会の産物である。

     

     前近代では、身分や職業が親から子へ継承され、稼ぎと暮らしの場所もほぼ同じである。生まれ、育ち、結婚し、老い、死ぬ過程がほぼ共同体内部で繰り返される。加齢と共に、経験を積み重ね、知識や知恵が身についてくる。近所や親戚とのつきあい方も覚え、社会性も体得する。見知らぬ人と出会う機会も少なく、共同体に適応していくことが社会性である。

     

     一方、近代社会は、生活と労働の場が分離される。移動も当たり前となり、一つの共同体の中で一生を終える方が少数である。未知の人との出会いは常態化している。お社会性を身につけるには、意識的な姿勢が不可欠である。経験を重ねて職場で会得した知識や知恵、人づきあいも、その外では必ずしも通じない。

     

     社会の生活者である市民はリスクの関係式のMを重視する。発生確率に基づいて発言する専門家との間でコミュニケーション・ギャップが生じるのは当然であろう。けれども、前述したように、Mの認知も科学リテラシーに属する。社会リテラシーではない。

     

     「リテラシー」は、話し聞く能力の「オラリティ」と対の概念である。オラリティは家族や近所での会話を通じて体得できる。一方、リテラシーは体系的・総合的・有機的カリキュラムに即した学習によって習得が可能である。そのため、学校を始めとする教育機関が必要となる。

     

     科学的認識はあるがままに知覚されることに反する場合が少なからずある。万有引力の法則は好例である。そのため、リテラシーの習得には学習が不可欠である。一方、社会性には他者との相互関係の認知・構築などが含まれるから、「社交性」とも言い換えられる。これは形式化できない以上、リテラシーに含められない。学習プログラムを考案している研究者もいるが、社会性はカリキュラムに依拠して会得するものでもない。

     

     科学コミュニケーションは科学に関する専門家と市民との間のコミュニケーション活動である。研究者自らが市民に語るアウトリーチ活動のケースとプロデューサー兼司会のサイエンス・コミュニケータが介在するケースの二つに大別できる。専門家の「社会リテラシー」の必要性を説く研究者の主張はほぼハード面の整備に終始している。小規模・大規模対話フォーラムや円卓会議、コンセンサス会議、サイエンス・ショップ、参加体験型イベントの開催など図解も交えた数々の提案がある。

     

     ところが、肝心のソフト面の認識がほとんどない。話しかけなければ、コミュニケーションは始まらない。赤の他人に声をかけ、おしゃべりができるなら、ハード面の充実で十分だろう。科学コミュニケーションは日々のコミュニケーションが成り立って初めて可能になる。しかし、知らない人に話しかけておしゃべりをすることが、実は、難しい。

     

     金田一秀穂杏林大学教授は、『新しい日本語の予習法』において、アメリカ資本のファミリー・レストランに入ったら、米国の接客マニュアルそのままだったために、閉口したと回想している。アルバイトの若い女性があれこれ話しかけてくるけれども、とにかくうるさい。こちらから話しかけてもいないのに、しゃべり続けられると、興ざめする。会社がアルバイトに米国流を強制したと見られるが、半年ほどしてそのサービスが停止されている。お客からも、従業員からも不評だったためと推察される。

     

     また、「豆富屋」として初めて上場した篠崎屋の樽見茂社長は、『豆富バカが上場した!』において、産直の販売員の雇用条件を50歳以上としている。以前に若者を雇ったことがある。彼らは挨拶もお礼もちゃんとできるが、お客とのコミュニケーションがまったくない。一方、高齢者の接客態度・技術は見事である。声のかけ方一つでお客の心をつかんでしまう。敬語を使う人も使わない人もいる。よそゆきの言葉でなくても、失礼な感じがない。「親愛の感情」がある。

     

     専門の接客業でも、これだけ苦労している。科学コミュニケーションに臨む専門家は年中それだけを考えているわけでもあるまい。この二例に共通しているのは、人生経験の少ない若者が顔見知りでない人とコミュニケーションをとることの難しさである。マニュアル通りに話せても、語りかけられない。これは、おそらく、研究者にも言えることだろう。見知らぬ人とおしゃべりもできないのに、科学コミュニケーションなど夢物語である。下手くそほど自分が見えていないから、いきなり難しいことをしようとするものだ。社会性を「社会リテラシー」とする認識では、未知の人との日常的なコミュニケーションはおぼつかない。科学コミュニケーションの拡充を目指すのであれば、この発想から改めるべきである。

     

    4章 タクト

     科学コミュニケーションの研究者が「社会リテラシー」で言いたいものを表わす最適の概念が教育学にある。それが「タクト(Takt: Tact)」である。科学コミュニケーションの言説にはこの概念はまずお目にかからない。ラテン語の「触覚」に由来し、英語で、「機転」や「如才さ」を意味する。指揮棒を「タクト」と呼ぶが、同じ単語である。後に述べるように、この概念は社会性が感情と密接な関係があることを示している。

     

     近代化が進むにつれ、見知らぬ人と出会う機会が増す。社会がコミュニティの集合からネットワーク化する。漠とした社会で、どのように新たな事態に対処するかを人々は求める。アドルフ・FV・クニッゲ(Freiherr Adolph Franz Friedrich Ludwig Knigge)の『人間交際術(Über den Umgang mit Menschen)(1788)が大ベストセラーになっている。見ず知らずの人への声のかけ方や話題のつく方等の他、ナンパ術まで記されている。

     

     未知の人との出会いが常態化する社会に対し、ケーニヒスベルク大学教授イマヌエル・カントが「タクト」を主張する。綱渡りの際、来たるべき未知の状態を注視して進んでいく。タクトは未来を察する能力、社交の技である。

     

     それを受けて、カントの後任教授ヨハン・フリードリヒ・ヘルバルトがタクトを教育学上のコミュニケーションの概念として展開する。子どもの将来は未知である。しかも、個別のコンテクストを持っている。社交の技を拡張した察しの技が教師には求められる。教育的タクトは教員が児童・生徒の可能性を発見する、または精神的成長を見出す能力である。ヘルバルトは、明晰・・連合・系統・方法という「形式的段階」として連合心理学に基礎を置いた教育論を構築し、段階的教育とそれに基づくカリキュラムを教育学にもたらしている。

     

     タクトは定量化できないパターン認識である。経験によって磨かれ、段階的に会得することはできない。タクトは「失敗から学ぶ(Learning from Failures)」技である。ただ、それはやみくもにした失敗ではない。「期待に反する失敗(To fail my expectations)」である。失敗したら、パターン照合をし、修正したり、他のものと変更したり、統合したりする。タクトは人格と結びついているため、マニュアル化できない。だから、タクト養成はカリキュラムでは困難である。つねにタクトを意識し、経験を積み重ねるほかない。イメージ・トレーニングはタクト習得の一つの方法である。

     

     タクトは教育学以外にも適用できる。従業員のタクトの向上は、サービス業でも日夜努力・工夫されている難問である。それを社会性の未熟な科学の研究者がすぐに達成できるはずもない。この「未熟」は話下手だけを指していない。往々に、話し上手とされる専門家は、相手の反応も確認せず、自分のペースで単調に語る傾向があり、眠くなるものだ。むしろ、システムを整備してそれを補う方が効果的である。未熟であっても、科学コミュニケーションに臨めるし、そうした場数をこなしている間に、熟達してくるだろう。

     

     NPO法人「くらしとバイオプラザ21」は「くらしとバイオ」に特化したサイエンスカフェを開催している。サイエンスカフェは、1998年、TVディレクターだったダンカン・ダグラスがイギリスのリーズのカフェシアンティフィークで始めた専門家と市民の語らいのイベントである。日本でも開かれているが、多くは大学が主催している。そんな中、このNPOは生活に密着したバイオの話題・情報提供とゲストの専門家を交えた対話を続けている。

     

     このバイオカフェの満足度は、参加者とゲストのスピーカーのアンケート結果を分析すると、一般のフォーラムやシンポジウムよりも、前者のそれが高いことがわかる。参加者の実に90%以上が満足している。さらに、興味深いのは「バイオカフェのやり方について」に関する0506年のアンケート結果の総計である。「気楽に話し合いたい」の回答が最も多く、「他の参加者の意見が聞きたい」と続き、次が「スピーチを長くしてほしい」だが、鼻差で「講師に直接質問・意見が言いたい」が来る。これが示しているのは、参加者はスピーカーとの縦の一方向よりも横や双方向のコミュニケーション、すなわち交流を求めていることである。

     

      こうした分析から、市民は正確な情報を聞くのみならず、それに関して話し合うことを望んでいることが明らかになる。どんなに正しくても、専門家の話を聞いているだけでは嫌なのであって、自分たちにも言わせろというわけだ。緊急事態になればなるほど判断力は低下するので、そうしたくなる。市民は、横や双方向を含めた多様なコミュニケーションを通じて、抱いている不安や意見を相互に交感し、その情報の妥当性を吟味し、納得して判断した行動をしたい。

     

     このアンケート結果を科学コミュニケーションの研究者も承知している。しかし、それを生かしているようには見受けられない。調査結果を踏まえたシステム整備をすれば、未熟なスピーカーであっても、市民の満足度は高くなるだろう。一般の人が求めているのは「説明」ではない。「共感」だ。専門家にわかってほしいのは自分たちの気持ちである。それは話を聞くことから始まる。ここに着目してシステムを考えればよい。先に市民に質問・意見を述べさせ、それに専門家が応答するようにすればよい。科学コミュニケーションにおける専門家のタクトの向上は、最終的には、経験を積むほかない。しかし、工夫の余地はある。

     

    5章 コミュニケーションの特徴

     日常的なコミュニケーションがあり、その上で科学コミュニケーションが可能になる。それなら、コミュニケーションにはどのような特徴があるのかを確認する必要がある。

     

     コミュニケーションの特徴は次の八つに要約できる。

     

    記号性

    コミュニケーションは記号を介して行われる

    内容・関係性

    伝達内容と同時に当事者の人間関係を伝える

    不可避性

    意図を前提としない

    デジタル・アナログ面

    要素に分割できるものとできないものがある

    不可逆性

    元に戻すことができない

    先行性

    人生の経験が反映される

    進行性

    固まらないし、終わらない。

    コンテクスト性

    何らかの場の中で行われる

     

     それぞれ例を交えて開設しよう。

     

     コミュニケーションは、言葉やジェスチャー、表情など必ず意味ある記号を介して行われる。それが記号性である。

     

    軽薄短小明

    • 2012.04.22 Sunday
    • 15:09
     

    軽薄短小明

    Seibun Satow

    Apr, 21. 2012

     

    「文体は思想の衣」。

    セネカ『ルキリウスへの手紙』

     

     「軽薄短小明」──これが日本語とネットに合ったコラムの文章傾向です。軽い文体、薄い内容、短い文、小さい文章量、明らかな意味ということです。

     

     日本語とネットの組み合わせには固有な特性があります。それが軽薄短小明の傾向をもたらすのです。もちろん、これは不特定多数を読者想定しているものに限ります。

     

     そうしたネット・コラムは事実型・意見型・心情型の三つに大別できます。

     

     事実型は、事件や出来事の事実関係を読者に明確に伝えるものです。意見型は、自分の考えを読者に納得してもらうように説明するものです。心情型は、自分の心情をその動きによって読者に共感してもらうものです。紀行文がその一例です。

     

     いずれのタイプにも共通する三つの特徴があることでしょう。

     

     1 明示的表現

     2 重点先行の文章構成

     3 話し言葉志向

     

     日本語のネットに適合すると、コラムはこの特徴を持ちます。なぜそうなるのか考えてみましょう。

     

    1 明示的表現

     ウェブ・コラムでは、何について書かれているかが語句として表われています。暗に示す手法は避けられます。

     

     ホームページは、検索サービスを経由して、閲覧されることが多いものです。検索結果に載らなければ、読まれにくくなります。そのため、検索エンジンにヒットしやすいように工夫する必要があるのです。

     

     人間は行間を読むことができます。暗に示されている言い回しでも、理解可能です。認知心理学者の市川伸一東京大学教授は、次のような暗示的な文章を紹介しています。

     

     部屋に入ると,低めのテーブルの上にメニューがあった。本が二冊おいてあった。壁には電話がかかっていた。きょうの人数は六人である。全員が席についた。一人の男性が本を配った。受け取った二人の男性は,中を見ずにとなりの人に渡した。もう一人の女性は,さっそく熱心に読み始めた。メニューを手にとった男性は一目見て,となりの女性に渡した。

     

     それと明示していなくても、わかる人には明瞭です。けれども、今のコンピュータにはできません。書かれていないことは検索不能なのです。検索エンジンに対応するため、ネット・コラムでは直截的な表現が使われます。ちなみに、市川教授の例文はカラオケ・ボックスの状況説明です。

     

     明らかな意味という文章傾向はこうした理由から生じるのです。

     

    2 重点先行の文章構成

     ブログを始めとするネット上のコラムは冒頭に主旨や概略が記されます。パソコンや携帯端末で閲覧されるからです。その画面に一度に表示できる字数は限られています。スクロールをしなくても、大筋が理解できるようにする必要があるのです。

     

     内容についての重点が先行配置され、詳細はその後に続きます。新聞はこうした文章構成をとっています。それは「逆三角形型」と呼ばれます。

     

     字数制限がありますから、一文一文を短くする必要があります。簡潔な文を書こうとすると、2040文字が目安になります。

     

     意見を主張する文を例にしましょう。最もシンプルな文の構造は次のようになります。

     

     ABである。

     

     日本語では、24文字の単語が多くを占めます。かりにどちらも2文字としても、この文の字数は9に及びます。最も簡素な断定口調の文でさえ10文字弱です。長い単語を使ったり、修飾語句を加えたりすると、40文字くらい簡単に届きます。「社会保障と税の一体改革」に至っては、11文字です。

     

     なるべく修飾語句は使わないで、単純な表現を心がける必要があります。複数の文を組み合わせて構成する複文や重文では40文字を超えてしまいます。単純な表現でも、効果的に積み重ねれば、複雑な内容も表わせます。確かに、回りくどくなるかもしれません。でも、複雑な構造の文よりも確実にメッセージを伝えられるのです。

     

     ただ、文が長けれぼ、わかりにくくなるわけではありません。明治の中頃、尾崎紅葉率いる硯友社の文学が一世を風靡しています。知識人だけでなく、無学の庶民にも人気があったと伝えられています。でも、その文体はとても息が長いのです。尾崎紅葉の『金色夜叉』の書き出しを引用してみましょう。

     

     未だ宵ながら松立てる門は一様に鎖籠めて、真直に長く東より西に横たはれる大道は掃きたるやうに物の影を留めず、いと寂くも往来の絶えたるに、例ならず繁き車輪の輾は、或は忙かりし、或は飲過ぎし年賀の帰来なるべく、疎に寄する獅子太鼓の遠響は、はや今日に尽きぬる三箇日を惜むが如く、その哀切さに小さき膓は断れぬべし。

     

     これで一文です。硯友社の文学はこういう長い文が連なっているのです。

     

     ですから、文が長いとわかりにくくなるわけでもありません。けれども、画面の都合があります。文を短くするように心がける方がネットには合っているのです。

     

     文を小分けし、それぞれの役割を考えて、文章を組み立てることが必要になります。先に作者の視点を提示して、それに沿って展開していくのです。事実型・意見型・心情型では主文の役割が事実・意見・心情と違います。でも、主文の後にそれを補強する文が置かれます。文章の構成は同じなのです。

     

     読者もすでに示されている枠組みから読み進めていきます。作者の限定に従って読むのですから、納得しやすくなるのです。

     

     この構成では、前置きが省かれます。そうすると、作者と読者との意識の共有のきっかけがなくなってしまいます。共有しやすいように、話題が三種類に大別されることになります。

     

     一つは時事問題です。同時代を生きている読者にあれこれ説明は要りません。次に、大勢の人が高い関心を示す話題です。映画に関する意見は見る際に参考になるものです。最後に、見知らぬ人でも話しかけやすい話題です。庭をきれいに手入れしている顔見知りでない人に声をかけても違和感はありません。日常のたわいもない話などもこれに含まれます。

     

     社会的に広く共有された認識を利用するのです。それでは、埋もれたことの発掘は難しくなります。こうした制約により、内容は薄くならざるをえません。けれども、それは決してマイナスの価値ではありません。社会とのつながりを心の片隅に置いているからです。

     

     また、読者の負担を考慮すると、分量を小さくする必要があります。電子書籍リーダーは別ですが、画面で文字を追うのは目が疲れます。短時間で読める方がありがたいのです。

     

     薄い内容や短い文、小さい文章量はこのような理由から生まれるのです。確かに、冒頭に突拍子もないことを提示し、驚かせて読ませる手法もあります。しかし、最初はともかく、次第に飽きられるものです。ウェーバー=フェヒナーの法則です。驚きのインフレに走り、手段と目的が入れ替わってしまいます。賢明な作者は控えるでしょう。

     

    3 話し言葉志向

     ネット・コラムでは話し言葉が志向されます。ネット上の文章は検索サービスを通じて閲覧されます。誰がどういう目的でいつ目にするかはわかりません。そこで、作者は読者が自分と文脈を共有できるように用意しておく必要があります。そのため、話し言葉志向がとられるのです。

     

     書き言葉では、コンテクストを共有しない者同士の理解が想定されます。公文書の書式はそうした工夫の一例です。文脈の代わりに形式を共有するわけです。

     

     一方、話し言葉は、具体的なコンテクストに依存します。反面、形式にあまりとらわれません。話し言葉志向は、文脈を共有して理解し合おうとする書き言葉のことです。

     

     コンテクストは、送信側が受信側に配慮・共感・譲歩をした上で、用意します。ですから、やわらかい印象を与えることが必要となります。

     

     「です・ます」調の敬体がわりに用いられるのは、そのためです。ネット・ユーザーには自分の信念を強く持つ人もいます。また、おっちょこちょいの人もいます。さらに、何事もくさしたり、茶化したりする道化者もいます。敬体は自己防衛にもなるのです。

     

     内容にもよりますが、同じ理由から、用語や用字も話し言葉志向です。

     

     用語の例を挙げましょう。

     

     本を買った。

     書籍を購入した。

     

     どちらも意味は同じです。でも、印象は違います。前者は日常生活を思い起こさせます。他方、後者は使途を所属組織に書面で報告するような印象があります。話し言葉志向ですから、前者の文が好まれます。

     

     漢字とひらがな、カタカナの用字や送り仮名なども話し言葉志向です。

     

     話し言葉志向と言っても、幅があります。コラムによって用語や用字にも傾向の違いが見られるのです。その方向性は大きく二つあります。

     

     一つは親しみやすさです。明るく、くだけた文体が用いられます。よりは話し言葉志向です。話し言葉のニュアンスを出すため、顔文字や絵文字がしばしば使われます。また、改行も頻繁です。それにより作者が一方的に話している気がしません。気さくな印象のため、読者には本音を言っている感じがします。

     

     もう一つは礼儀正しさです。こちらは丁寧な文体が使われます。読者には慎重な印象が伝わります。親しみやすい文体よりも、比較的、幅広い年齢層でやりとりが可能です。社会的属性が選ばせる文体とも言えます。

     

     このような事情から軽い文体がネット・コラムでは主流になります。重点先行の文章構成は新聞と似ていますが、文体は違うのです。

     

     ただ、話し言葉に近いために、推敲が甘くなりがちです。電子媒体は修正が簡単です。なのに、ついつい見直しを怠ってしまいます。変換ミスを始め誤字脱字はウェブ・コラムにつきものです。

     

     以上が日本語とネットに合ったコラムの三つの特徴です。もちろん、オンライン・コラムがすべてそうではありません。実際、佐藤清文という文芸批評家のコラムは「軽薄短小明」を無視しています。もっとも、そのせいか、人気もありません。

     

     三つの特徴を意識しなければ、自然に軽薄短小明になるものではないのです。それを踏まえて効果的に書くと、その傾向に向かうということです。目にするコラムがわかりやすいかどうかの理由も、これを参考に気づくことでしょう。

     

     ただ、電子書籍端末が普及すれば、傾向もまた変わるかもしれません。文章論から考えると、ネット上の文章にも改めて見えてくるものがあるのです。

    〈了〉

    参照文献

    市川伸一、『考えることの科学 推論の認知心理学への招待』、中公新書、1997

    杉浦克巳、『日本語表現法』、放送大学教育振興会、2007

    青空文庫

    http://www.aozora.gr.jp/


     

    政治決断と遅延評価

    • 2012.04.20 Friday
    • 23:10
     

    政治決断と遅延評価

    Seibun Satow

    Apr, 19. 2012

     

    「話から察すると、城代はなかなかの玉だぜ。てめえがばかだと思われてるのを気にしねえだけでも大物だ。ところでその大目付の菊井だが、お前達が"やっぱり話せる。やっぱり本物だ"なんて言ってるとこから見ると、こいつはまず、見掛けにゃ申し分はねえ。らしいな。 しかし、人は見掛けによらねえよ。危ねえ危ねえだぜ」。

    黒澤明『椿三十郎』

     

     1978年、小平国家副主席は、尖閣諸島の領有をめぐって、「主権問題は棚上げして共同開発しよう。次の世代にはわれわれよりももっといい知恵があるに違いない。」と表明している。当面の最大の目標は日中平和友好条約の締結であり、その障壁になる諸問題は棚上げにしたというわけだ。尖閣諸島の管轄権は日本にあり、中国もそれを尊重する現状維持が確認されている。

     

     これは「遅延評価(Lazy Evaluation)」の発想である。その成否の影響が非常に大きい場合、どのように環境が変化するかわからないので、判断をできる限り先延ばしにする。工学において、こうした評価法は、自然環境の下での施工・使用が前提で、大勢の作業員が加わり、高額の公共投資に基づく受注の土木事業で採用される。

     

     なお、ここでの遅延評価の用法は、情報科学のそれとは異なっている。また、工学の三区分も便宜上であり、必ずしも一般的ではない。

     

     エンジニアリングを設計における制約の硬軟を基準にすると、機械系・土木系・システム系の三つに大別できる。

     

     機械系は、不特定多数をユーザー対象とし、主に人工環境での製造が想定された大量生産品を指す。環境を最適化できるなど作業工程での制約はソフトである。もし人手では難しければ、そこは自動化すればすむ。機械系のエンジニアの制約処理は逐次的で、工程間での環境変化を無視できるため、決断は早いほどよい「先行評価(Eager evaluation)」がとられる。機械系のエンジニアは、このような条件から、最高品質を目指す。

     

     一方、土木系は「ハード制約(Hard Constraint)」である。自然条件下で、なおかつ大勢の作業員が従事する。何が起こるかわからない。しかも、通常、公共投資の受注であるため、使用目的が明確である。制約が硬く、設計者は判断を可能な限り遅らせる「遅延評価」を採用する。こうした事情から、最低限度の品質を確保することに苦心する。

     

     機械系では、ビスが100本必要だとすれば、それだけ用意する。エンジニアは無駄を極力削減し、最高品質を狙う。一方、土木系ではボルトが1万本要るのなら、2万本を組み入れる。作業員の数が増せば、ミスも確率論的に増加する。バカ力を出してトルクレンチでボルトを締め付け、その頭を吹っ飛ばすことも頻繁に起こる。疲れてくれば、無駄な力が抜けて締め、1万本の確保はできるだろうと余裕を持って設計せざるを得ない。

     

     システム系は機械系と土木系の中間である。使用環境は自然であるが、エンジニアは個別品と言うよりも、システム品を設計する。航空機や船舶の製造がこれに含まれる。

     

     環境の変化が予想され、関係者が極めて多数に亘るハード制約の場合、遅延評価の発想が効果的である。小平が領土問題で即決を避けたのは賢明だろう。これが「知恵」というものだ。小平以外にも、この姿勢をとった政治家がいる。その一人が鈴木善幸元首相である。彼の知恵がなかったら、311の被害はさらに拡大していたかもしれない。

     

     青森県から茨城県にかけての太平洋沿岸で、岩手県だけ原発が立地していない。しかし、その岩手にもかつて原発建設の計画が持ち上がったことがある。最有力候補地は、信じがたいことだが、旧田老町摂待地区である。「津波田老」に原発を建設するなどまともな神経では考えられない。2011311日に同地区を襲った津波は、約14mの防潮堤を乗り越え、その倍ほどの高さまで山肌を抉り、海岸線から1km以上先まで洗い流している。計画が実施されていたらと思うと、ぞっとする。

     

     2012121日付『朝日新聞』の「原発国家 三陸の港から」によると、70年前後に通産省が地質調査を行い、80年に、中村直知事が県議会で「県民生活の安定や産業振興に原子力を含む大規模電源が必要」と表明、82年には、県が摂待地区を始め四か所を候補地として東北電力に売りこんでいる。

     

     県の経済界は誘致に期待を示す。また、玉沢徳一郎や小沢一郎など県選出の自民党の国会議員も賛成を表明する。その一方で、地元の漁民たちは強く反対を主張している。三陸の世論は真っ二つに割れてしまう。

     

     この時、カギを握っていたのが鈴木善幸首相である。彼は食えないタヌキぶりを発揮し、原発誘致に関する決断をとにかくずるずると先延ばししている。早野仙平田野畑村長が「原発交付金は村予算の4倍、30億円以上ももらえるが、使う知恵がない」と伝えると、ただ「そうだな」と満足げにつぶやいたとされる。

     

     善幸は団結を大切にし、内部対立を嫌う。典型的な調整型の政治家で、激しい派閥抗争の末、大平正芳首相の急死に伴い、後継に選任された理由の一つもそこにある。首相就任に際し、「和の政治」を掲げている。もし原発誘致の是非をはっきりさせてしまえば、地元の分裂は決定的になる。その対立は将来に亘って続く。これを何としても避けねばならない。

     

     善幸は、首相退陣後も、決断を遅延させる。漁港の改良のために、三陸を訪れても、原発の話は口にしない。その後、原油価格は下落、省エネの取り組みもあり、電力もだぶつく。三陸の原発計画はいつの間にか立ち消えになっている。

     

     善幸がとった手法は、遅延評価の発想に基づいている。目に見える決断よりも、目に見えぬ調整を選び、のらりくらりとした姿勢にしたたかさを感じさせる。善幸と比べると、やたらまばたきをしながら、独りよがりの決断を大声で叫ぶ政治家が未熟に見える。首長としては、外形標準課税や新銀行東京、教職員志望者の減少、公費による豪勢な海外旅行、気ままな登庁などの失政・スキャンダルは思い浮かぶが、成果は探し出すのが困難なほどである。しかも、311による防災対策の根本的見直しや東電改革にも当人に熱心さが見られない。そこに今回の都の予算による尖閣諸島の購入表明だ。

     

     即断は、未来が線的に続くならば、有効である。だが、実際にはそうではない。将来の見通しの甘さや無責任が露呈するものだ。日本の政官は、既成事実をつくって反対論を抑えこむ目的から、先行評価を好む。遅延評価をとらず、判断を速めたために、地元が二分しただけでなく、その後の環境変化に伴い、当初の目的が失われた公共事業は、原発も含めて、日本全国の至る所に見られる。決断を速くすれば、事態が早期に収拾できるわけでもない。むしろ、対立が延々と続き、出口さえ見えなくなってしまう。遅延評価の発想の方が実際には解決が速い。

     

     そうした経験にもかかわらず、日本政治において遅延評価の意義を世論が認められているは言い難い。停滞する政治を前に決断力を求められ、恣意的な即断に拍手喝采される。しかし、知恵が足りないために、調整ができず、動かないのが実情である。

     

     今の政治に必要なのは知恵だ。決断ではない。

    〈了〉

    参照文献

    福田収一、『自己発展経済のための工学』、養賢堂、2011


    JUGEMテーマ:原発

    脱地下資源社会へ

    • 2012.04.15 Sunday
    • 19:42
     

    脱地下資源社会へ

    Seibun Satow

    Apr, 15. 2012

     

    「夢を語れ、技術を語るな」。

    福田収一『自己発展経済のための工学』

     

     今も甚大な被害が続いているフクシマを経験しながら、現政権は、安全性を二の次に、軽々しくも大飯原発を再稼働させようとしている。まったく将来のヴィジョンを示しておらず、構想力のなさを露呈している。菅直人内閣はしばしば停滞と揶揄されたが、現政権は後退しているのだから、始末が悪い。

     

     夏の電力不足が懸念されるので、大飯原発の再稼働を進める。これは問題解決、すなわち戦術的思考である。戦略的思考は、新たな問題設定を行うことである。与野党問わず、2000年代に入って、「国家戦略」と口にする政治家が目につくようになったが、まったくそれが何たるかを理解していない。戦術は既存の問題に対して”how”からのアプローチであり、戦略はその本質を”why”と考えるアプローチである。そこから新たな問題設定が生まれる。

     

     原発の稼働がなくても、電力不足に陥ることはまずないだろう。関西電力の提示データの信頼性やバックアップ発電所の存在、節電・省エネ効果、電力市場の縮小傾向などを理由に、これは多くの論者が指摘している。今回、戦略的思考を問う都合上、それに深入りする気はない。ただ、大飯原発の再稼働は戦略的思考を停止させてしまうことにおいて最悪である。

     

     垢抜けない原発再稼働の方針には、311以前への回帰があるだけで、今後の見通しが感じられない。高度経済成長期はたまたま大規模自然災害が少なかった時期であり、原発建設はそれを前提に進められている。だが、311以後は地震活動が活発化したと見られ、これだけでも戦略の見直しが不可欠だ。

     

     そもそも、原子力関連への人材不足はこれまで一向に改善されていない。それは政府も認めている。70年代後半から、実質的に、高等教育機関での志望者数は減少している。人が集まらないのに、原子力に未来があるわけがない。未来を語れぬものが政府にいるべきではない。

     

     しかし、脱原発が目標ではない。それでは不十分だ。原発は地下資源に依存する社会が修正主義的に求めたものだからである。現行社会のはらむ矛盾を抜本的に再考することなく、導入されている。温室効果ガスの抑制には効果的だという意見はその一例である。地下資源依存の社会から脱却する必要がある。地上資源を利用した社会へとシフトするべきである。

     

     この地上資源には、潮力や海洋温度差、波力、海流、水中植物によるバイオマスなど海洋のそれも含まれる。

     

     地下資源依存社会は非常に軋轢が生じやすい。地下資源は有限であるから、ゼロサム状況を生み出す。誰かが得をすれば、誰かが損をする。資源ナショナリスムや資源ポリティクスが発生し、国家間の争奪戦が激化する。

     

     一方、脱地下資源社会は、資源による国際的緊張が起きにくい。バイオマス等を除く大半の地上資源は無限であるから、ノンゼロサム状況をもたらす。誰かが得をしても、誰かが損をするわけではない。太陽光や風力の国家間の奪い合いなどあり得ない。地上資源は世界中に遍在し、枯渇の恐れがない。対立が発生するとすれば、地下資源で潤っていた勢力が既得権益を失うと、利己的に振る舞った時くらいである。

     

     地下資源社会は、熱エネルギー依存社会と言い換えられる。石炭や石油などの化石燃料を大型発電所で燃やし、それを電気エネルギーに変換する。原発もこの延長線上にある。熱エネルギーは仕事への変換効率が悪い。そのため、規模の経済の観点から大規模集中型のエネルギー・ネットワークが採用される。

     

     世界には、現在、約17億人の無電化人口がいると推測されている。これが、現行のシステムを前提にしたまま、電化していくとすれば、莫大な量の地下資源がさらに必要となる。原発も地下資源に依存している。ウランもいずれ枯渇する。小型の非熱系の発電設備を共同体の必要に応じて設置する方が効果的である。保守・補修も地元の人に担当させれば、雇用も生まれる。

     

     また、エネルギー・セキュリティの問題もある。産出地から消費地への石油や天然ガスなどの地下資源の運搬は、国境を超えるため、国際情勢の変化の影響を受けやすい。加えて、原子力には、それを隠れ蓑にした好戦国家の核兵器開発ならびにテロリスト等への核兵器拡散の危険性がある。おまけに、原発の数が増加すれば事故の可能性が高まる。原発の事故は高度に専門的で、被害が甚大であるため、国際環境法では、「高度危険活動(Ultra Hazardous Activities)」に分類されている。これは科学的知見による予見性の有無にかかわらず、事故が起きたという事実で当事者が責任を負う「無過失責任」が原則になっている。とは言っても、その被害の回復は極めて困難である。

     

     再生可能エネルギーに対して、天候により供給が不安定だという批判がある。これは、20世紀的な工学の思考習慣に浸っている。20世紀の工学は、コンテクスト・フリーを前提に設計している。もっとも、変化に対応したくても、それだけの技術もない。そのため、コンテクストを無視し、画一的な再現を目指している。

     

     一方、21世紀の工学はコンテクストに即応することを念頭に置く。それを可能にするのがITである。エネルギー分野も例外ではない。スマート・メーターから集められたストリーミング・データをクラウド・コンピューティングで解析し、需給の変化を管理する。こういった仕組みを一例とした「スマート・エネルギー・ネットワーク・システム(SENS)」を構築し、変化に対応する。

     

     従来、電力の供給は電力会社から利用者への一方向でしかなかったが、ITによって制御、すなわちスマート化すれば、それが双方向になる。このスマート・グリットが整備された地域が「スマート・コミュニティ」である。この内部には、スマート化された建築物や各種のインフラ、商業施設、公共施設、住宅などが配置され、地上資源エネルギーの発電・蓄電施設が整備されている。それには、企業や自治体、大学、各種の団体、個人の強いコミットメント、すなわち協働が不可欠である。エネルギーに対して受動的ではなく、能動的に向かい、それを通じてコミュニティの新たな物語を協創する。

     

     日本は、311から物語の共有がいかにかけがえのないことかを学んでいる。それを協創を意識していくのが311後の社会でなければならない。原発は、これまで、建設に際して、地域を分断してきたが、フクシマに至って、いかに人の絆を引きちぎるかを露見している。脱原発は、むしろ、当然である。

     

     スマート・コミュニティ構想は、実は、実証段階に入っている。経済産業省は2009年に「次世代エネルギー・社会システム協議会」を設置している。また、横浜や京都、豊田、北九州などで実験的取組が実施されている。この試みは大いなるビジネスのチャンスである。国内の雇用創出も見込める。さらに、スマート・コミュニティの成果は海外市場への輸出も期待できる。

     

     スマート・コミュニティは、電力の効率的な活用を目指している。節電・省エネも含まれているのは言うまでもない。それには、排出権取引を参考にした電力の取引市場の創設も考えていい。余剰電力もさることながら、節電・省エネも取引の対象になれば、意欲も高まる。節電は苦痛の伴う耐久ではなく、利益をもたらす快感である。

     

     スマート・コミュニティを構成する「スマート・ハウス」は商業的にすでに実現している。屋根の上にソーラー発電システムを置き、電気自動車の充放電を活用する。太陽光発電は、光電効果を利用しているため、生まれてくるのは直流である。直流の電気エネルギーは化学エネルギーに変換できるので、蓄電が可能である。また、数メートルのケーブル程度の送電であれば、電気抵抗を考慮した高電圧にする必要もないので、直流のままで十分である。家庭の電気エネルギーはこれで自給可能である。日射があるときにソーラー・エネルギーを利用し、太陽が隠れているときには、自動車等に蓄電しておいた電力を使う。日産のリーフがスマート・ハウスに対応した代表例である。

     

     日本の住宅の3、4軒に1軒をスマート・ハウスに変えたとすると、それは約2800kWの太陽電池に相当する。この量は大手電力会社一社分の平均的な発電能力である。

     

     ちなみに、東京は、先進諸国の都市の中で、年間を通じて最も日射がある。東京の緯度はモロッコに当たる。しかも、冬期間、先進諸国の主要都市で最も乾燥する。かつて公団住宅の建設の際の条件の一つに「南面4時間」、すなわち南向きの部屋は冬でも晴天の日に14時間の日射を確保することがあったが、パリもロンドンもローマもこれをクリアできない。

     

     何らかの危機を想定して原発の再稼働を主張するのは、戦術的思考にすぎない。彼らは、その先に漸進的に原発を減らしていくべきだという意見しか持ち合わせていないだろう。そういう近視眼的な人物に限って、リアリストだと自称する。稼働するほど増え続ける放射性廃棄物の問題に対する答えも用意していない。日本の省エネならびに再生可能エネルギー活用のための技術は非常に発達している。けれども、それが十分に生かされているとは言い難い。こうした事態は戦略的思考の乏しさに起因する。戦術的思考では既得権益の温存が優先される。来るべき社会を構想して、新たな問題設定をすれば、それらの技術は体系的・総合的・有機的に位置づけられる。今必要なのはそんな戦術的意見ではない。戦略的見通しだ。

     

     福田収一首都大学東京名誉教授は、『自己発展経済のための工学』において、日本が歴史的に専修的思考に偏重してきたと指摘する。この工学博士は大戦中のゼロ戦とF6ヘルキャットを例に挙げる。当時の空中戦は敵機の背後に回りこみ、機銃で撃ち落とすスタイルである。ゼロ戦はこの戦術に非常に適した設計をしている。小回りが利き、機銃の命中精度も高い。一方、F6の設計思想は違う。目的は勝つことであり、この戦術にこだわる必要はない。高高度から銃撃すれば、簡単に撃ち落とせる。高高度に達するだけであれば、高い技術力は要求されない。しかも、敵は編隊を組んで飛んでいるから、上から撃てば、どれかに当たるので、機銃の精度もさほど高くなくてよい。製造も、そのため」、容易である。おまけに、旋回半径も大きくてかまわなければ、防御装置も充実でき、かつパイロットにかかるGも小さい。ゼロ戦と違い、未熟なパイロットでも扱える。製造・操縦の技術的高度化を狙ってはおらず、戦略目標を練り、それに基づく運用を考えている。名誉教授は、日本もこうした戦略的思考をとるようにすべきだと提言している。

     

     現首相は、2011922日、国連で「日本の原子力発電の安全性を世界最高水準に高める」と発言し、フクシマを経験しながら、依然として戦術的思考から抜け出せない愚かさを世界にさらしている。この思考習慣がフクシマを招いた自覚さえない。

     

     これほどエネルギー問題に当事者意識を持って日本で議論が沸騰したことはない。脱原発へのヴィジョンは人々の心を熱くさせている。原発をめぐる戦術的思考は、結局、これしかないと強制するが、戦略的思考はオプションを用意するからだ。ただ、脱原発は過渡期である。目指すは脱地下資源社会だ。その大きな流れで見るとき、脱原発はたやすい。何が資源となり得るかは知識と技術によって決まる。さあ、未来を協創しよう!

    〈了〉

    参照文献

    柏木孝夫、『スマート革命』、日経BP社、2010

    福田収一、『自己発展経済のための工学』、養賢堂、2011

    佐藤清文、『原発と学生』、2011

    http://www.geocities.jp/hpcriticism/oc/npgs.html


    政治主導の終焉

    • 2012.04.11 Wednesday
    • 22:35
     

    政治主導

    Seibun Satow

    Apr, 11. 2012

     

    「羊の毛を刈に行って、自分が刈られて戻ってくる」。

    ミゲール・デ・セルバンテス『ドン・キホーテ』

     

     90年代以降の国政において最も唱えられているスローガンの一つとして「政治主導」が挙げられる。それは、従来は官が主導で意思決定をしてきたが、政が中心となるべきだと一般的には流布している。

     

     しあし、これでは事実に反してしまう。55年体制下、自民党の族議員が意思決定の際に、大きな影響力を及ぼしている。

     

     この政治主導は、霞が関のみならず、こうした族議員も抑えこむことを含むと考えるべきだろう。それは、こういった勢力の動向に振り回されず、内閣が主導して意思決定をする政治を指している。政治主導とは官邸主導のことである。

     

     政治主導を実践したのは、民社国連立政権ではなく、小泉純一郎内閣の誕生からである。それは小泉首相のリーダーシップは言うまでもないが、2001年に発足した内閣府の力が大きい。この組織は強力な権限を有し、重要政策に関する企画立案・総合調整を行う。その際、省庁の管轄にとらわれない。

     

     小泉首相は、こうした制度変更を背景に、内閣と党や霞が関の関係を再構築する。族議員の意向を無視し、党は国会での内閣のサポートに位置付けられる。また、自らの政策を実施しやすいように、従来の霞が関の秩序を解体する。ただ、それは機能を奪ったのではなく、その勢力地図を塗り替えたというのが正確なところである。経済官僚が伸長し、厚生や労働、教育、郵政などが抑制される。

     

     政治主導では問題の提起が重要である。世論に問題を提起し、支持が高ければ、それを根拠に党や霞が関を抑える。世論の動向を見定めて、タイミングを計り、わかりやすい表現で、新たな将来像に基づいた問題を問う。内閣が政策を実施するには、世論の支持が不可欠である。それには、こうした構想力に立脚したメッセージがそのマッサージとなる。

     

     政治指導は2000年代を通じた国政の潮流である。これは、自公連立政権だろうと、民()国連立政権だろうと、共通している。

     

     政治主導を最も推し進めようとしたのは、鳩山由紀夫内閣だろう。党政調は廃止、政策決定は政務三役だけで行い、事務次官を排除している。その行きづまりの後に誕生した次の菅直人内閣は、多数の有識者会議の設置が告げているように、政治主導を堅持しつつ、この路線を若干修正している。党政調が復活し、事務次官も政策決定に参加するようになる。

     

     実は、鳩山政権も、完全に官僚を排除していたわけではない。財務省と連携している。これは事業仕分けからも明らかだが、1245日付『朝日新聞』の「民主党政権 失敗の本質」で詳しく記されている。財務省は予算編成権を握っているのだから、それで歳出カットをさせ、他省庁を抑え込んでくれると期待したわけだ。けれども、これは明らかな判断ミスである。財務省の体質を理解しているならば、このような考えを持てるはずがない。

     

     財務省の体質を経済産業省との比較で見てみよう。

     

     経済産業省は、通産省時代の1960年代の貿易・資本の自由化により、多くの許認可権限を失う。彼らが存在感を維持するために、「霞が関のシンクタンク」へと転身する。他省庁の管轄を含むありとあらゆる領域に関心を寄せ、新たな問題設定を行い、広く社会にそれを提言する。彼らは、永田町もさることながら、世論や社会の動向にも敏感である。

     

     一方、財務省は他省庁の要求を受動的に審査し、予算編成するのが主な仕事である。彼らは、予算編成を通じた政策間の調整として自らの方針を示す。そのため、隠密行動をとり、政権中枢と連携することに専心、自分たちの主張は首相を含む政治家に代弁させる。積極的に問題的しないので、国民世論委は鈍感である。

     

     こういう体質の財務省の力を借りれば、からめ捕られるのは目に見えている。新たな時代に向けた構想力もない財務省を突出させては、政官関係や霞が関秩序の反動化を招く危険性もある。各省庁の体質を前もって分析できていれば、こうした判断ミスもしなかっただろう。

     

     2011年に発足した現内閣はこの財務省の傀儡と呼んでよく、政治主導を放棄している。近年、これほど財務省の体質を具現化した首相もいない。消費税増税を唱えながら、見込みの甘い公共事業には大盤振る舞いの既得権益拡大のオンパレードである。溝撃鵜の被害がいまだに続き、新たな社会を構築していかなければいけない311以後の日本に最もふさわしくないタイプの首相だ。国債の格付けが下がるから消費税増税だ、あるいは電力不足になるから原発再稼働だという現首相の言動は極めて受動的で、311後の日本社会に関するヴィジョンがない。この内閣の下、変更された霞が関の勢力地図もより戻されている。現政権は森嘉朗内閣までの政治のゾンビである。

     

     政治主導にはいくつかの問題点が認められる。中長期的なヴィジョンが必要な課題までも、短期的に考えられてしまう。また、首相が交代すると政治課題や意思決定方法が変更される。それによって疑似政権交代の印象を有権者に与えられたが、政策の継続性の点で政治主導にはやはり限界がある。

     

     それ以上に根本的なのは、政治主導が内閣の強さに依存する点である。いかに内閣府を持っていたとしても、政治主導をするには、その内閣の基盤が強固でなければならない。選挙の顔として勝利したリーダーが首班指名を受け、その人物が率いる内閣への支持率も高い。こうした内閣には、党や霞が関も干渉しにくい。この条件に適合するのは小泉政権と発足直後の鳩山政権だけである。他方、党内選挙だけで選ばれた首相は、政治力学を無視できないので、弱く、政治主導を発揮できない。

     

     政治主導は、市民社会の組織化が進んでおらず、無党派層が最大の有権者層である状況から生まれた発想である。阪神・淡路大震災をきっかけに、市民の政治参加への意識が高まっている。けれども、業界や団体、組合などの組織政治が染みついた政党は、選挙の際、十分に集票機能を発揮できない。次世代の政治指導者のリクルート・育成システムも整備されておらず、松下政経塾出身者が政界に進出する余地を与えるが、彼らは教養主義を欠いた独善的エリート主義者で、市民政治には背を向ける、風に乗り、個人的人気を党への票へと導く「選挙の顔」が勝敗を決する。政治主導はこうした状況の産物である。

     

     市民社会の組織化が促進されたなら、国政は新たな段階へと進む期待がある。民主党は、市民社会の組織化に寄与できる可能性を持っていたが、自民党の亜流でしかないゾンビ政権を誕生さえて期待外れに終わる。さまざまな課題に関する情報を率直に公開し、市民と共に熟議を行い、意思決定を図る。政治主導からそうした熟議の参加型政治への発展は、民主党は口では言っていたのだが、今回の政権交代からは実現していない。民主党は、政治主導の内閣府に相当する制度を熟議の政治では生み出していない。それではできっこない。

     

     政治主導の季節は国政では終わったと見るべきだろう。けれども、財務省の傀儡政権が世論の熱い思いを下げ続けているように、過去に戻っても先はない。熟議の政治は相互作用の政治であり、相互作用性が次の政治のあり方のキーになる。

    〈了〉

    参照文献

    真渕勝、『改訂版現代行政分析』、放送大学教育振興会、2008

    直し屋で行こう

    • 2012.04.09 Monday
    • 22:47
     

    直し屋で行こう

    Seibun Satow

    Apr, 08. 2012

     

    「修理にこられるお客さんは、車だけでなく、どこか心も傷ついています。車だけでなく、その人の心の傷もなおしてさしあげるような思いで、修理をしてさしあげましょう」。

    本田宗一郎

     

     『週刊東洋経済』2012414日号は、「日本人が10年後食える仕事」を特集している。化粧品や岩盤浴、便器製造などが挙がっている。ここに一つ加えたいビジネスがある。それは「修理」である。

     

     物理的存在の製品が設計仕様を保っているのは、工場出荷時までである。使い始めれば、劣化する一方だ。ある一定水準の使い勝手を維持するためには、定期的な保守と本格的な補修の「修理」が不可欠である。ところが、この作業には、製造以上の技能・知識・経験を必須とする。

     

     福田収一首都大学東京名誉教授は、『自己発展経済のための工学』において、世界で日本が最も活躍できるビジネスの一つとして「直し屋」を提案している。日本にとって外需は重要である。けれども、それは新製品販売だけではない。「修理」も含まれる。このビジネスこそ、日本の強みを最も生かせる可能性がある。

     

     修理はさまざまな分野で必須とされている。福田名誉教授は、長年携わってきた溶接を例に、修理ビジネスがいかに日本向きであるかを説いている。一般の人にとって、おそらく溶接は製品製造の現場での作業だろう。けれども、処女材を溶接するのは容易である。熱履歴もなく、材料も一定、条件想定も決まっているから、前加工さえしっかりしてあれば、教科書通りにできる。

     

     一方、補修溶接は非常に難しい。熱履歴だけでなく、使用履歴もあり、変質・変形が見込まれる。実際に作業を始める前に、状態を診断する必要がある。補修する材料や製品は、処女材と違い、それぞれとても個性豊かである。コンテクストを洞察する高度な認定技術者でないと、補修溶接はできない。

     

     従来、日本企業は工場溶接の質の高さを売り物にしている。前加工がきっちりしていて、条件出しも完全、溶接の品質もよい。けれども、それは機械化が容易であり。また技能・知識・経験もさほど必要としないので、新興国が追いつけるだろう。ここにこだわっていては生き残れない。

     

     補修は極めて高度な技能・知識・経験を必要とする。それぞれの個性を的確に診断できなければ、補修溶接はままならない。大量生産方式ではなく、受注が基本である。この分野でも新興国が近づいてくるのではないかという危惧があるかもしれない。ところが、そうはいかない。

     

     設計の基本構造を「アーキテクチャ」と呼ぶ。これは「インテグラル型」と「モジュラー型」の二つに大別される。前者はシステム全体から個々の部品を相互調整的に構造設計するアプローチであり、自動車が好例である。一方、後者は各部品間のインターフェースを標準化して結合するアプローチであり、デスクトップ・パソコンが典型例である。

     

     新興国はモジュラー型で発展してきたが、日本はインテグラル型で強みを発揮する。補修には、先に述べた通りコンテクストの判断が不可欠であるため、まさにこの発想が必須である。

     

     日本で溶接工のなり手が減っているとされているが、溶接技能者資格試験の受験者は増えている。実は、芸術家の受験が増加している。野外彫刻などの作成に溶接が必要だからだ。しかも、合格者の成績上位者もほぼ芸術家が独占している。大切なのはモーチベーションであり、産業界が十分に溶接の魅力を示し得ていないことが課題である。

     

     なお、福田名誉教授によると、すり合せを可能にする多能工が多いのは、日本以外では、アイルランドである。

     

     福田名誉教授は、総合商社の技術屋版とも言うべき総合的な修理の「万屋」を展開すべきだと主張する。修理には「柔軟で広範囲のマッチングを必要とする」点で、総合商社のスタイルに近い。このノウハウがあるのも日本の強みであり、それを修理ビジネスに移植すればよい。

     

     海外市場に新製品を投入する際、その地域の発展段階・事情によって売れ行き差大きく左右される。けれども、修理であれば、相手国の現状に柔軟に対応できる。また、その過程において、顧客の使い方・期待の傾向に関する多元的・多角的な情報収集が可能で、新製品開発のヒントになる。さらに、環境問題の改善には大量生産・大量消費・大量廃棄を見直す必要があるが、修理は「もったいない」の実践であり、それにも貢献できる。

     

     実際、修理ビジネスで成功している企業がすでに登場している。それがコマツである。同社は建設・鉱山機械の製造・販売分野で高い国際競争力を有している。注目すべきは、アフター・サービスの充実だ。建設機械の使用による故障リスク・事故リスクを広範囲にカバーする総合補償プラン「コマツオールサポート」を提供している。

     

     修理は、実は、元の状態に戻すことではない。そんなことはできない。顧客の期待に可能な限り近づける結果を示すことである。満足された時、それは修理できたと言える。その意味で、修理はサービス業でもある。それには、まず、顧客の期待を理解する必要がある。直し屋は、顧客と「見方(Perspective)」を合致させること、すなわち“alignment”に努めなければならない。その根本にあるのは共感である。

     

     311の際、多くの直し屋が活躍している、泥まみれの写真やアルバムの復元はその一例である。中には、かつての街並みをデジタル技術でヴァーチャルに復元した今のお時代ならではの直し屋も登場している。彼らが修理したのはモノではない。人々の間で共有されてきた物語である。直し屋がそれに取り組んだのは、被災者の姿に共感したからだ。自身もその一人だったものもいる。誰にも、もう2011311日以前の状態に戻すことはできない。せめてかけがえのない人たちとの思い出が修理を通じて蘇るのであれば、やってやろうじゃないか。

     

     直し屋として今後の世界に貢献する。311を経験した日本にとって、その意義は十二分に理解しているはずだ。

    〈了〉

    参照文献

    福田収一、『自己発展経済のための工学』、養賢堂、2011

    KOMATSU

    http://www.komatsu.co.jp/

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